ある晴れた日に- 第一章

 アルジュナが日本に訪れたのは、ロシア・極東の広範囲に分布するLNG資源に対するプラント建設交渉の為だった。
 一族が経営する多国籍企業でしかるべき議決権株式と役職を与えられ、アルジュナはエネルギー分野においては、最高権限を有している。忙しくない訳ではないが、この交渉のテーブルに関しては、残念ながら長丁場を覚悟していた。
 何しろ、この国は何事を決めるにも時間が掛かるので有名だ。此方こちらはアルジュナ一人が上げられたレポートと資料を見て判断を下せばよいだけだが、向こうは交渉のテーブルの提案をいちいち本省だか本社だかに持って帰っては会議に掛けねばならぬ。そんなものを待っていては冗談ではなく日が暮れるが、かといって一旦戻ってまた出直すのも業腹ごうはらである。またそんなことをすれば交渉はゼロ地点まで逆戻りしかねない。
 従ってアルジュナは珍しくも、滞在しているアメリカ資本の高級ホテルで暇を持て余していたのだった。
 それは、普段ワーカホリック気味だと弟たちにも兄にも心配されてはいるが、どうせのんびりするのなら、こんな異国の都会で面白みもないホテルに滞在するのではなく、風光明媚ふうこうめいびな自然の中で休暇を取りたい。
 しかしまあ、与えられた境遇きょうぐうに愚痴を言っても仕方が無い。何がなんでも、有利な条件でプラントを誘致したい接待側はあらゆる努力を払ってアルジュナを楽しませようとはしてくれ、まあアルジュナ本人としてはそんなことよりもさっさと交渉を終わらせて帰国したかったのではあるが、それはそれとしてあちこちの神社仏閣やら、木製の家々が残る下町やらを観光に連れ出してくれ、何くれとなく楽しませてはくれた。
 
 或日あるひのことである。彼らの熱心な接待がどうしてこういう運びになったのか、アルジュナは今に至るも理解できないのだが、不首尾ふしゅびに終わった調整の席を、さすがに面倒臭げな態度を隠すのさえも面倒になってきたアルジュナが若干ぞんざいに席を立った日の夜のことである。
 何やら痕跡を残さぬようにとの配慮だろうか、メールではなく携帯電話のコールで誘われたのが、日本伝統のおたのしみ――なんだそれは――とやらで、要するにアンダーグラウンドのショーパーティーへの招待だった。
 無論そんなものに興味がある訳がない。だいいち、接待役を務めてくれていたまだ若い――といってもアルジュナよりは大分年上だろうが――男が、電話口で声をひそめて、とはいえ何やら罪悪感も背徳感も特に感じられぬあっけらかんとした声で告げた所によると、そのアンダーグラウンドショー、「フラワー・ショー」とやらは、性的機能に欠陥もしくは特異な特徴がある演者を集めた興業であり、その伝統とやらは、要するに片端者かたわものを見世物にしながら、その周囲で性的コンパニオンとセックスをしようという、実に下卑げびた趣向だった。
 いったいどうしてそんなものを、日本側の交渉役が接待の一部として用意してきたのかほとんど見当も付かない。アルジュナは呆れ果てて言下げんかに断ろうとしたものを、何故どうしてそうなったのか、電話を切った時には、では明日の二一時に迎えの車が来るというのを了承してしまっていた。
 アルジュナは憮然として、手の中のスマートフォンをねめつけた。途中から呆れはてて生返事をしていたのは確かだが、興味がないと途中で切らなかったのも己なら、ya, I see しか返事をしなくなったアルジュナに恐る恐る、出席なさいますかと聞かれたときに、行くと答えてしまったのも己である。
 向こうの意図はなんだかよくわからないが、秘密は厳守で、とある高級マンションの一室でもよおされるそのショーは別段違法でもないと力説するのが既に怪しい。大体、いかがわしくない代物ならば、違法ではない云々などと言い出す筈がないではないか。
 いかがわしいショー、性的サービス、夜の会合となればもう今から何もかもがうんざりする。アルジュナはコールバックして先程の返答をキャンセルしようとし、指先で液晶画面をタップしようとして逡巡しゅんじゅんした。
 自分でも、何を逡巡しているのかまるでわからなかった。それでも、何故かこの電話を掛けぬ方がよいとアルジュナは感じ、それはただの勘ではあったが、もうずっと、この勘に従って判断して間違ったことはない。
 無論、常は冷静に状況を比較し、理性的に比較検討した上で、最後の瞬間にその小さな引っかかりで判断を決めるのではあるが――これほど、理性で見れば何一つ合理性のない判断を、直感が引き留めるのは初めてだった。
 アルジュナは溜息を吐き、ぽいと彼には似つかわしくない動作でスマートフォンを放り出した。手放された金属の薄べったい固まりはホテルのつるりとしたデスクの上を滑ってこつりと革製のペンソーサーに行き当たって止まり、アルジュナは行儀悪く、両腕を頭の後ろに組んで靴をデスクに上げた。
 まあいい。面倒は面倒ではあるが、何がこれほど引っ掛かるのか、顔だけ出して、矢張やはり納得できなかったらぐに帰ればいいだけのことだ。何なら後で、笑い話として兄弟に話すくらいの体験にはなるかもしれない。
 アルジュナはそう決め込むと、それ以上この件について考えるのは辞めて、ノートパソコンを引き寄せ、片付けられる仕事を暇なうちに片付けてしまうことにした。

 次の夜、果たして二一時丁度にホテルのインペリアル・スイート・フロア専用の車回しに付けられたクラウンに、やや普段よりリラックスした様子の――何故だ――案内役の男がニコニコと出迎えた。
 アルジュナは大して愛想良くする気にもなれず、乗り込んではサッサと断って両耳にイヤフォーンを突っ込み、会話をシャットアウトした。
 自分でもあまりよい趣味とは思われないが、イヤフォーンから流れてくる曲は、昨晩からなんということもなく選択して、スイート・ルームのマホガニーの壁に埋め込まれたサラウンドスピーカーで流し続けていたプッチーニのアリアだった。
 ある晴れた日に《Un bel dì, vedremo》。クラシックを好むのは気取った趣味と言う訳でもなく、生家での習慣だった。マリア・カラス、一九六四年。名盤のCDやらLPやらを大量に母から譲られて、ジャンルを問わず音楽を放り込んでいるサーバーに詰め込んでいる。
 アルジュナは溜息を押し殺して、車の窓ガラスを見た。連れて行かれる場所は別段遠くもないらしく、ハイウェイに乗る気配はない。アルジュナに同乗しているボディガードも、部下を乗せた後続車も、のんびりと首都の渋滞に身を任せている。
 東京の土地勘などないから、どういった地区なのかはわからないが、周囲には真新しいように見える近未来的な居住用のビルが建ち並び、その合間を縫うように緑が植栽され、ある程度の社会的地位のある人間が、便利なセカンド・ハウスとして利用するマンションの立地としては相応しいように思えた。
 やがて黒塗りのセダンは、ひときわ高層のマンションの地下駐車場に滑り込み、アルジュナは、ともかく早く済ませて切り上げようとイヤフォーンを引き抜いた。

 専用フロアのエレベーターをうやうやしく扉を開けられて迎え入れられ、するすると音もなく一〇〇階近い階層をよじ登る。
 この地震の多い国では高層建築は大変な労苦であるらしい。その技術は素直に評価するところであるが、その用途が究極的にはこの馬鹿げたパーティーに費やされる運命であるならば、随分とこの世界は回りくどい皮肉を用意しているものだ。
 深い絨毯の敷かれた廊下から、すばらしい夜景を見下ろすリビングルームに案内され、既にその場所に着座していた、幾人かの顔を見たことのあるようなないような男達がチラリとアルジュナに目を向けた。
 しかし、幸いなことに――と言っていいのかわからないが――その場所では知り合いであろうがなかろうが、一礼した後は何もないように振る舞うのが礼儀であるらしく、アルジュナは部下を別室に待たせ、ボディーガードだけを連れて、自分に用意されているらしき低いソファに腰を下ろした。
 薄暗い照明に調整されたその部屋は、どうも完全にいかがわしい用途に使われることを前提としているらしく、幾つか用意されたソファの座面は低くて広く、まあそういう用途にはぴったりであろうと察せられた。ソファの向かう方向には、別に一段高くなっている訳でもないが、無粋なビニール・テープで絨毯に仕切りの線が引かれて即席の舞台が用意されており、隣室に繋がっているであろうドアの前には、衝立ついたてが置かれて舞台袖という扱いらしかった。
 アルジュナは眉をひそめ、白いスーツの足を尊大に組んだ。安い紙巻きの煙草を吸った臭いが部屋には染みついており、アルジュナは矢張やはり、こんな所へのこのこやってくるのではなかったと何度目かの後悔をした。
 ともかく、このショーとやらが始まる前にこの場所を退散した方が賢明ではないのか。舞台の上には、この位置からでも、バイブレーターだのバナナだのローションだの、見るも馬鹿馬鹿しい小道具の入ったプラスチックケースが置かれているのが見え、演者がその上でパフォーマンスを見せるのであろう、ビニールマットの表面に布地が貼られたものがでんと鎮座していた。
 そういえばパリで商談があった時も、ストリップ・ショーに連れて行かれたことがあったな、とアルジュナは現実逃避気味に思い出した。古いキャバレーの伝統あるショウ。無論金持ちしか入れない。観光客のたむろするムーラン・ルージュの少し奥で、時にはたった一人の客の為に、選りすぐられた踊り子たちが性器をチラチラと見せながら踊る。
 望めばいくらだって女の裸などどこでも手に入るこの時代に、わざわざそんなにも大げさな、貸し切りのストリップ・ショーをする滑稽こっけいさを、踊り子も、キャバレーの経営者も、客もよくわかっていて、皆笑って手を叩く。
 そういった懐古趣味かいこしゅみがいいとはアルジュナは全くもって思わないが、それはそれとして、今この部屋で行われようとしているショーは、隠微いんびな雰囲気もいかがわしさもたっぷりと用意されてはいたが、どうしようもない安っぽさと、下卑た好奇心が漂っていて、まるで好感を持てる要素がない。
 そのうち、周囲のソファと同じくアルジュナの隣にも、太腿までスリットの入ったスパンコール入りのドレスを着た女が現れて床に膝をついて頭を下げ、アルジュナに酒を差し出した。
 これを一杯飲んだら帰ろうと思いつつアルジュナは、差し出されたウィスキーを――そのウィスキーの香りだけはじつに結構だった――一口すすり、それから目を見開いた。
 隣室から出てきて衝立ついたての影に置かれた機材を無造作に操作し、部屋に音楽を流し始めたのは、どうやら演者の一人であるようだった。
 なぜなら、真っ赤なキラキラと光るラメ入りのロングドレスを、なんだか取り敢えず着ましたと言わんばかりの投げやりな様子で着込んでいるのはどう見ても男であり、上背はそれなりにある方のアルジュナよりも更に少し背が高いだろうと思われる。
 胸を大きくって、袖のあるドレスに包まれた肩は酷く骨張ってごつごつしており、透ける布地に、薄い胸がガリガリに痩せこけているのが一目でわかる。腰骨がドレスから大きく張って突き出し、どうも全体的に、性的魅力があるようにも思えなかった。
 しかし、その、客席からの視線に無頓着に、機材だけをまっすぐ見降ろしている抜けるように色の白い顔立ちは大層美しかった。細い弧を描く眉、切れ長の瞳が何色かまでは見て取れない。男のものらしく高い頬骨ほおぼね、薄い唇に色はないが、両目の下にひとはけ色がいてあった。
 カルナ。
 アルジュナは思わず立ち上がって叫ぶのを、すんでの所で押さえ付けた。意思の力で肉体の反抗を押さえ付ける拳がぶるぶると震え、アルジュナが凝視する先で、あまりにも強い視線にさすがに気付いたのか、舞台脇のカルナがちらりとこちらに目をった。
 その時、カルナがアルジュナに反応を見せたのであれば、アルジュナは即座に立ち上がり、巫山戯ふざけた格好をしたカルナの襟首えりくび掴んで室外にたたき出し、貴様何をしていると叫んだことだろう。
 だが、カルナはアルジュナと目が合っても、怪訝けげんなように首を一瞬かしげた以外の反応を見せず、音量を調節してそのまま隣室に引っ込んでしまった。
 アルジュナは全身がぶるぶると震えるばかりだった力を取り敢えずは抜いて、握りつぶすのではないかと今頃心配になったグラスをサイドテーブルに置いた。
 幸いなことに、グラスは頑丈にできていたらしく、アルジュナが一瞬全身の力を籠めて握り締めても、そのまま粉砕されたりはしなかった。その事実に感謝の念を込めて、アルジュナは取り敢えずもう一口ウィスキーをすすって気を落ち着けた。
「どうかなさいましたか?」
 女が話し掛けてきたが、アルジュナは申し訳ないと思いつつ、英語しか理解できないふりをして黙らせた。実際には、こちらの仕事を任されてから日本語もそれなりに勉強して身につけていたが、今はそんなものにかかずらっている余裕はまるでなかった。
 それでも、アルジュナが一応ソファに落ち着いて酒を飲み始めたことに安心したのか、女は隣に座り込んで遠慮がちに身体を押しつけるように酒のサーヴィスを始め、アルジュナはともかく面倒でそれについては放っておいた。

 カルナが、まさか、こんな。
 よりにもよって、こんな場所で宿敵と出くわそうとは。
 アルジュナには輪廻の記憶があった。正確には、ある時代、ある時、己が人間ならざるものとして身を置いていたカルデアという天文台の記憶があった。
 記憶は完全ではなく、また体系だったものでもなかった。ものごころつくころからそれは単純な事実としてアルジュナの中にあり、またさとい子供だったアルジュナは、その記憶を決して誰にも話さなかった。
 それゆえ、経済的にも、愛情にも家族にも、恵まれた子供時代を過ごしたにもかかわらず、アルジュナはやはり孤独だったと言ってもよい。
 自分がかつて雷帝の子として英雄の生を送ったという伝説は、生々しい記憶としては持ってはおらず、単なる知識としてそこにあった。
 記憶と言えるほどの記憶はカルデアとの縁から始まる。カルナと再び出会い、サーヴァントとして殺し合ったこと。その後カルデアで再会し、共にマスターに仕えたこと。そうしてカルナと――カルナと交わした恋情と熱。
 どういった経緯でそうなったのかは覚えていない。英霊となる以前、カルナの首をねたのは間違いなくアルジュナであるはずだった。それが、異邦の天文台で出会い、二人はぎこちなく、互いに同じ陣営に立ち、同じ主を守って戦った。
 その折カルナがアルジュナの頬にわずかに触れ、お前こそがオレのほまれだとささやいたとき、アルジュナはふるえ、カルナの美しい頬にその褐色かっしょくの手を伸ばして触れられず、お前こそがまことに美しいと答え、そしてどちらからともなく誘われるように交わした口づけは熱かった。
 その時分かち合った熱だけが、カルデアでカルナに触れた全てだった。
 だが間違いなく、今この世界で、アルジュナをアルジュナたらしめている記憶はカルナをっており、それどころか彼を愛しいものだと認識していた。
 そのカルナが、そこにいる。
 アルジュナは考えもまとまらぬまま、ウィスキーを舐めた。酒には強い方ではあったが、もうどちらかといえば泥酔してしまいたい気分だった。
 ともかく、ショーが始まる前に席を立って帰る手はこれでなくなった。たとえ何があったとて、あのカルナの謎を解くまではこの場を離れられるものか。
 自分が冷静さを欠いていることを自覚しつつ、アルジュナはいらいらとソファの上でひたすらショーが始まるのを待った。

 ショーは中年の、太り気味の女性ストリッパーのパフォーマンスから始まった。彼女はどうやら熟練のストリッパーであるらしく、中々に達者に、なんとも言いがたい芸を披露した。……女性器でピンポン玉を客席に飛ばしたり、ロウソクを吹き消したりといったたぐいの芸である。
 そのうち彼女は例のプラスチックケースに入ったバナナを性器に挿入してみせ、ずるりと引き出したものを客席に見せつけた。バナナの白い果実には、くっきりと三本の歯形が付いていた。
 彼女はそれからも、風船を膣内で割ったりロウソクに歯形を付けたりしてみせ、その度に客席にはなんともいいがたいどよめきが走って、ヴァギナに歯の生えた女のパフォーマンスはそれなりに好評をはくしているようだった。
 上の空のアルジュナを余所にショーは粛々《しゅくしゅく》と進行し、次に登場したのは、ペニスが二本生えた男だった。一本のペニスはごく一般的な――黄色人種らしく若干小ぶりな――性器であったが、その付け根から指二本ほどのあたりから、一本目よりかなり細身の、子供のようなペニスが分岐して生えているのだった。
 男は性器を擦って隆々と勃起させ、両方のペニスが射精できることを示して、客席はまたどよめいた。アルジュナは心底馬鹿馬鹿しくなって、この場から立ち去れぬ原因であるところのカルナがだんだん恨めしくなってきた。
 男優のパフォーマンスはすぐに終わり、舞台脇の椅子に引っ込んだ。その横で音楽を扇情的ないわゆるストリップショーのBGMから、頭の痛くなるようなユーロビートに切り替えたのがやはりカルナであり、アルジュナは吸い付けられるように彼を凝視した。カルナはうんざりするほどのボリュームに機材を調整し、無造作に立ち上がった。
 それから、舞台袖に脱ぎ捨てられていたらしいハイヒールを行儀悪く足先で転がして履き、そのまま舞台に上がってきた。
 7インチはあろうかというピン・ヒールは、左右がわざと不揃いに切りそろえられているらしい。カルナは明らかに不自然な腰の振り方で、それでも彼なりにストリップ・ショーのパフォーマンスに相応ふさわしい歩き方を試みるのか、ぴんと伸ばしたつま先と脚はすらりと切れ込んだスリットから覗いてなまめかしかった。
 舞台の中央まで歩いてきたカルナは、色気とは無縁のぞんざいさで、客席に向き合って立った。どこまでも、せた男の身体でしかないものに、まとわりつく派手な赤いラメの薄地。しかし笑い飛ばせぬ迫力と、目を奪われる魅力は彼の無表情な白皙の顔があまりにも美しいからだった。
 カルナは数歩、足場を固めるように足下を探り、それから薄い胸をわずかに膨らませて一つ息を吐き、きついまなざしで客席を見据えた。その一切の背後で強烈なユーロビートが耳をつんざくボリュームで鳴り響き、時代遅れのせわしい音楽が脳髄を不快に突き刺すように感じる。
 カルナはそのまま、そろそろとドレスのすそをたくし上げた。どうにもぎこちなくぎくしゃくとした動きは、緊張やためらいなどというものではなく、単純に客たちが彼を凝視しているその視線の意味がわからないからだろう。彼らが自分に欲情するという事実が、まだカルナの中で飲み込めていないのだ。
 おそらく決められた秒数を頭の中で数えているのだろうとわかるぎこちなさで、カルナはゆっくりとドレスのすそを白い指で持ち上げた。武器など握ったこともないのであろう、華奢きゃしゃな細い指が、真っ赤なラメを掴み、へそが見える位置まで一糸まとわぬ下肢をさらけ出してフウと細い息を吐く。
 アルジュナは呼吸をするのを忘れたまま、カルナの芸とも言えぬようなパフォーマンスを呆然と見ていた。カルナは白い頬を晒したまま、その冷静な顔に血の気も乗せず、相変わらず客席を――アルジュナの方を見ることなく、ぼうと、客席の誰に視線を向けるということもなく、ただそのあたりの空間を見ていた。
 否応もなく、目をらす権利などないと言われているかのように、のろのろと視線は見せつけられているむき出しの下半身の方へ向かう。
 カルナの、真っ白い股間には何もなかった。つるりとしたそこには陰毛すらなく、痛々しいほど痩せたむき出しの肌に、簡易に設置されたスポットライトの光が当たっている。
 カルナは側にあった高い足台に片足を乗せ、ピンヒールで器用にバランスを取りながら、股の間を客席にさらけ出して見せた。両手を股間に添え、開いて見せたその間には、てらてらと光る肉色のひだが見え、足りないだろうとばかりに、そのまま彼は絨毯に座り込み両膝を立てて、大胆に開いた脚の間に真っ白な指を添えて、襞を両手で掻き分けてその奥の閉じた暗い穴を見せつけた。
 心臓が鼓動を激しく大きく打ち過ぎ、喉から飛び出すようだった。アルジュナは釘付けになったように目を逸らすこともできず、カルナの、男の身体がさらけ出す女陰を冷や汗を流しながら見続けるしかなかった。
 その肉色の闇はてらてらと貧弱なスポットライトを浴びて光っていたが、その液体は恐らく人工的なもので、性的な分泌物ぶんぴつぶつではあるまいと思われた。カルナの肌にはあまりに血の気がなく、性器もまるで充血していなかったからである。
 カルナは完全にドレスを脱ぎ捨て、どう見ても男である身体を改めて思い知らせるように、裸にピンヒールだけを身につけた姿でぐるりと狭い舞台を回った。それからゆっくりと、最初のヴァギナに歯の生えた女ストリッパーの使ったエアマットに腰を下ろし、膝を立てて股間を見せたままそこに座り込んだ。
 アルジュナは頭痛に堪えがたい思いがし、激しい動悸を押さえ付けながら、席を蹴ってこの場を立とうと幾度も思った。隣に座って、アルジュナのたくましい腕にしなだれかかっている女の生暖かい肉体が気色悪く、脳髄に針を突き刺して滅茶苦茶に引っかき回すようなユーロビートが不快だった。何もかもが耐え難かった。
 汗が目に入って激痛を訴え、にじむ視界の隅で、カルナの前に舞台に立った二本ペニスの男が立ち上がり、エアマットに仰向けに横たわったカルナの前に膝をついた。
 男がカルナの白い脚を抱え上げ、観客からよく見えるように彼の身体を引きずるように位置をずらした時点で、アルジュナは、次のパフォーマンスとして予定されているのが、この奇形のペニスの男と、男の身体にヴァギナを持ったカルナとの性交の実演であることに気付いた。
 その瞬間、アルジュナは叩きつけるようにグラスを置いて立ち上がった。もうこれ以上、この下らないセックス・ショーに付き合うのはうんざりだった。叩きつけられたグラスは哀れにもついに衝撃に耐えかねて底から砕け散り、残っていたウィスキー――氷はとっくに溶けきっていた――とガラスの破片が一緒くたに飛び散った。
 アルジュナは断乎だんことした足取りで舞台に歩み寄り、男を押しのけてカルナの白い腕をぐいとつかんで引き起こした。
「何をしている、カルナ――行くぞ」
 隣室の扉が開いて幾人かがばらばらと部屋に入ってきたが、恐らく主賓格しゅひんかくで扱われているのであろうアルジュナをえて制止しようとする者は居ないようだった。また力尽くで来られたとしても、同行させているボディガードは、一流のプライベート・サーヴィスから腕の程と実直な性質を見込んで引き抜いた最優秀の人材である。荒事あらごとになるならば後悔するのはどちらかは目に見えている。
 一座の座長と思しき男がカルナに何か話し掛けたが、ユーロビートが相変わらず鳴り響いている中、早口の日本語はアルジュナにはわからなかった。
 カルナは無表情のままゆっくりと首を振って見せ、アルジュナは指が食い込む程に力をめてつかんだカルナの腕を引いたまま、マンションのドアを開けて部下を呼んだ。
 隣室から出てきた彼らは、ぱだか色素欠乏症アルビノの男を引きずっている自分たちのボスに仰天した様子ではあったが、カルナが別段抵抗もせず大人しくぺたぺたと裸足で付いてくる様子であるのと、アルジュナのとんでもない剣幕とに、何も言わず従うことに決めたようだった。
 接待役の日本人が、目をまん丸にしたままエレベーターを呼び、何やらせわしくスマートフォンに打ち込み、到着したエレベーターにアルジュナ達を案内して預けていたコートを渡してきた。アルジュナはそのコートをひったくってカルナに着せた。その間、エレベーターが地上一〇〇階の距離をするすると滑り降りるまで、誰一人何ひとつ口を利かなかった。
 アルジュナは自分の用意したハイヤーにカルナを押し込んで一緒に乗り込み、ホテルに戻れと一言言って、後部座席に深く沈み込んだ。酷く――酷く、疲れていた。これほど疲れたのはこの人生で初めてだったかもしれなかった。
 カルナは相変わらず何を考えているのか何一つわからない美しい顔をきょとんと、物珍しげにハイヤーの内部を見回し、最終的に、夜景の流れる車の窓に興味を示した。
 アルジュナは、何か話し掛けるべきではないかと思いはしたものの、いったい何を話したものか見当も付かなかった。それを考えるのにはいくら何でも疲れすぎていた。
 カルナは相変わらず何も言わなかった。彼からしてみれば、パフォーマンスの最中に舞台から引きずり下ろされて何処へ行くとも告げられぬまま、見知らぬ男に強引に連れ去られている最中だというのにも関わらず、抵抗らしきものをするどころか、アルジュナの引きずるままにぺたぺたと素直に付いてきては、大人しく座席に座っているのだった。
 アルジュナはもう考えるのを止め、わずかに気力を取り戻してスマートフォンに指を走らせた。
 ホテルに連絡をし、一人、表に出せぬ状態のものを連れて帰るから用意をしてくれと告げると、既に誰か部下が連絡していたらしく、うけたまわっておりますとアルジュナの部屋の専任コンシェルジュが落ち着いて応対してくれた。地下の専用ゲートからお入り下さいませ、フロアの直通エレベーターは常に専用に運転してございます、駐車場から専用エントランスまでは数歩の距離ですが、目隠しに数名、ホテルの信頼できるものを地下に待たせてございます。
 落ち着いた声音で話すホテルマンと会話していると、まともな世界に戻ったような気分になった。誰もが金を持っていて、洗練されていて、尊重されている。そんな世界。
 アルジュナのよく知っている世界だった。その世界では少なくとも誰もユーロビートを一〇〇デシベルもの非常識な音量で流したりはしない。
 ほっとした気分になって通話を切ると、カルナが多分彼に出会ってから初めて、アルジュナの方に興味を示していた。
「それは」
 一言も口を利かなかったカルナがおもむろに口を開き、その低い、やや柔らかな落ち着いた声が、やはりよくったものと強く思えて、アルジュナは息をのんだ。
「その携帯電話はお前のものか」
 携帯電話。アルジュナは呆気にとられて手の中の銀色の金属片を見下ろし、カルナの青白い顔を見、もう一度スマートフォンを見て呆然と頷いた。
「最新の機種なのだろう、知っている」
「……そうか」
 アルジュナはますます呆気にとられてぎこちなく頷きながらどうにかそれだけ絞り出し、カルナはまだ何か続けたそうだったが、丁度その時車がホテルの裏手エントランスに辿り着いて地下駐車場に滑り込んだため、その口を閉じてしまった。
 アルジュナは混乱し、ようやくカルナと会話ができたという感慨かんがいと、いやあれを会話と称していいのかという葛藤の間で哀れにもようやく収まりかけていた頭痛がまたぶり返し、途方にくれて頭を振った。

 連れてこられた場所はとんでもない高級ホテルの、とんでもない高級なフロアで、カルナは目をぱちくりさせた。それは、高級ホテルに呼ばれて興業こうぎょうを打つこともあるが、大抵はこんな階に出入りさせてはもらえない。
 エレベーターの中から既に絨毯はふかふかとしていて、裸足のまま出てきてしまったカルナの足にはありがたかった。
 男は――今に至るも名前さえ知らないので、どう呼ぶべきかすらわからないのだが――ショーの会場でカルナの腕を掴んだ時から、ギリギリと締め付ける力こそややゆるくなったもののずっと掴んだ腕を放さず、カルナは大人しく左腕を引っ張られるままに歩いていた。
 エレベーターから出てすぐの所に、部屋の入り口があり、付いてきていたホテルの係は、きっちりと腰から曲げる御辞儀をしてドアを開けると、アルジュナとカルナを中に通して、またきっちりと御辞儀をした。
 カルナが思わず御辞儀を返していると、彼の腕を引いている男が苛立ったように引っ張ったので、つんのめるように後に二、三歩進み、もう一つのドア――入り口のドアは二重になっているようだった――をくぐった。
 ドアの向こうは、カルナがこれまでの生涯で見たことがないどころか、想像もしたことがないような世界だった。金色と茶色の毛が生えたソファがでんと鎮座ちんざしており、なぜだかわからないが、女の裸の彫刻が置いてあった。壁には油絵が掛けてあったが、カルナにはその絵に何が描いてあるのかよくわからなかった。抽象画だったのだ。
 洋書のぎっしりと詰まった本棚があり、銀色の容器に果物と花がそれぞれ盛ったものが置いてあり、カルナは感心してその部屋を眺めたが、男がずんずんと奥へ奥へと引っ張っていくので、観察するのを諦めて大人しくついていった。

 座長は、知り合いか、とカルナにたずねたが、カルナには、どう記憶をひっくり返しても、この、今カルナの腕をひっつかんで抜けるほど引っ張っている若い男と、一面識もあるとは思われなかった。だいいち、こんな男に一度でも出会っていたら、わからないという道理はあるまい。
 あのマンションで男が部屋に入ってきた時、カルナは思わず彼を注視ちゅうししていた。
 隣室からショーの部屋は、マジックミラーで見通せるようになっている。趣向によっては、夜景の見えるメインルームでセックスパーティなどが盛り上がるのを、こちらの部屋で酒を飲みながら眺めるといった用途にも使われるらしい。
 そのマジックミラーに思わず顔を近づけて、カルナはじっとその男を眺めた。どの国の出身なのか、その肌はつややかに濃い褐色をしていて、顔立ちの彫りは深かった。下手に着れば気障きざにしか見えないだろう、上等な白いスーツを嫌味の一つもなく着こなしてソファに長い脚を組んだ男は、何処かの王族と言われても違和感がなかった。
「尊大な男だな」
 カルナが何の気なく漏らした感想に、ごつい体格をしたオカマが、あらあ、と目を見開いた。
「カルナちゃんがそんなこと言うなんて珍しいわねえ。余っ程気にくわない客でもいるの?」
 彼女はカルナの横から隣室を見渡し、カルナは、別に気にくわない訳ではないのだが、また言葉選びを間違えたかと反省をした。
「あら、珍しくいーい男が来てるじゃない、なあにあれ、美形ねえ、ちょっとこの後一晩お願いできないかしら」
「そうだな」
 そうか、い男か、そういう表現をすればよかったのかとカルナは感心して同意したのだが、大柄なオカマは大笑いしてカルナの髪の毛を掻き回した。
「やあねえ、冗談よ。あんなひと、誰かの付き合いで来たに決まってるでしょう、私たちなんかにお声は掛かんないわよ。――いらっしゃい、カルナちゃん、髪の毛やってあげる。あなたまた乾かさずに寝たでしょう、ショーの前だっていうのに」
「む、すまない。昨晩は遅くなってしまったので、髪が乾くまで起きていられなかった」
「ドライヤーってものがあるでしょう」
「所持していない」
「ほんとにもう……」
 ほんとにもう、と言いながら、彼女は手際よくカルナの髪を濡らしてセットしてくれ、簡単に化粧をしてくれた。
「感謝する」
 よい仲間に恵まれたものだ、とカルナは心から天に感謝した。カルナの晴れやかな表情を見て、彼女はふっと顔を曇らせた。
「ほんとにねえ……カルナちゃんあんたいくつになったの」
「三十五だが」
「到底見えないわよね……でもねえ、この仕事、いくつになってもできるモンじゃないわよ。あたしたちみたいなはみ出し者、どうにか生活の手段を持ってないと、どうにもならないンだから……」
 カルナは神妙しんみょうに頷いた。そういう彼女は新宿に小さな持ちビルがあり、そこでゲイバーを経営している他、投資用のマンションをいくつも持っているという話だった。
 カルナもいつだったか、もういい加減その暮らしぶりなら少しは小金も貯まったでしょうと、ワンルームマンションの投資に誘われたことがあったのだが、言われたとおり通帳を持参して広げて見せると、彼女は目を丸くした。
「なあにこれえ、全然残ってないじゃないの、あなたこれが本当に全財産なの!?」
「ああ、間違いない」
「なんで!?」
 生活に余った金は、出身の孤児院やら様々の慈善団体に寄付してしまうのだと言うと、彼女は呆れ果てたと言うように説教をした。あなた何考えてるの、身体が資本のこの商売で、生活費どころか入院だってできないような残高しかないなんて、それは余った金じゃなくて必要な金よ、バーカ!
 口の悪い彼女はカルナをののしりつつ、自動的に一定額を定期預金に預け入れる方法を教えてくれ、たとえなにがあろうと自分自身のため以外にその金を引き出さないことを約束させた。
 元々はボディビルダーだったという大柄な身体に、男らしい顔立ちを頬紅ほおべにとアイシャドウで巧みに化粧して、モロッコだかで性転換の手術を受けたという彼女は、カルナの面倒をよく見てくれる。
 どういう事情かは知らないが、何か深く心に傷付くことが過去にあったらしい彼女は、愛想良く人あしらいは上手いが、決して他人に深く関わり合う人間ではないとカルナはわかっている。そんな彼女が何故かお節介と言われるほどに、カルナの生き方に口を挟んでくれるのは、友人の少ない彼にとってとても嬉しいことなのだった。
「ほら、できたわよ。あんた本当に美人よねえ。ソンくらい美人だったら、パトロンの一人や二人くらい、簡単に付きそうなもんなのにねえ」
 カルナは首をかしげた。
「そうだろうか。だが、オレと寝た相手で、もう一度と望まれたことは滅多とない。大概、次の日には携帯電話も連絡が取れなくなっている」
「着拒!? そこまで!? 美人過ぎるのもよくないのかしらねえ、それにカルナちゃんはまあ、口がね」
 己の口下手を自覚しているカルナは黙って頷いた。そろそろ時間だから音楽を変えてきてくれと座長がカルナに声を掛け、カルナは頷いて立ち上がった。
 珍しく、わずかに緊張しながら隣室に続くドアを開ける。似合いもしないとわかりきっているのを、そういうのをお客さんは期待しているんだよと訳のわからぬ理屈で指定されている、透けるような赤のロングドレスを着心地悪く引きずりながら、かがみ込んで壁のパネルを操作する。
 途端、痛烈つうれつな程の視線を感じて、カルナは酷く居心地が悪くなった。その視線は、先程カルナがマジックミラー越しに眺めていた若い男のものだった。
 いつまで経っても慣れないながら、もう大分長いことこの商売を続けているカルナには、その視線が間違いなくその男のもので、しかもカルナだけをまっすぐに見据えていること、性的な関心と、好奇心と、そして、例えるなら恋情に似た、激しい感情を乗せていることがすぐにわかった。
 恋情。例え一夜限りであっても、カルナのような者にでも、そんな感情を向けるものはいるのだ。大抵その甘ったるい感情は長続きせず、それも恐らく、カルナ自身が冷水を浴びせてしまうのだと理解しているから、そんな色を感じると、返って悲しくなってしまうのだった。
 ともかく、彼は無遠慮を通り越して異様なほどにカルナを凝視ぎょうしし続け、カルナは、先程向こうからの視線は通らないのをいいことに、自分が彼を観察していたのを申し訳なく思い、これは何かの罰だろうかと考えた。
 それから耐えられずちらりと男の方を見遣ったのだが、視線は当然とうぜんとしてがっちりと絡み合い、男の瞳が黒々と真っ黒な色をしているのも、タイを外した白いスーツに包まれた胸板が存外に厚いのも見て取ってしまい、カルナは慌てて顔をらした。
 曲を切り替え、ボリュームを調節して、そそくさと隣室に逃げ帰る。一座のメンバーは皆、自分の出番を前にめいめい準備に没頭ぼっとうしている。元々個人主義の色彩の強いこの一座は、必要が無い限り他のメンバーに干渉はほとんどせず、カルナにとってはそれも居心地がよかった。
 最初に出番のある女性メンバーが小道具を抱えて部屋を出て行くと、慣れた流れでショーが始まった。
 公演によって演出や順番が多少変わりはするものの、所詮生まれ持っての奇形を売り物にしたアングラ・ショーである。今芸を披露している栄子さんのような、他の劇団出身のメンバーを除いて持ち芸に幅があるわけでもなく、基本的にやることはいつも変わりない。
 カルナはその中でも特に、大根役者もいいところで、せいぜい色気を振りまけと座長に叱咤しったされたところで、そもそも自分の色気とはなんだか本人がよくわかっていないし、とにかくぎこちなくその身体を晒して、後は他のメンバーに参加してもらって、セックスの実演をし、下半身の異常が作り物でないことを見せる程度なのだった。
 そうして、いつもよりあっという間に前の二人の出番は終わってしまい、カルナはしぶしぶ立ち上がって、扉から衝立ついたての影に出た。
 パネルに向かい、音楽を切り替えれば、また背後に突き刺さるような視線を感じる。その瞳が、余りに強く、余りに熱心にカルナを見詰めるので、背筋がぞくぞくと震えるのだった。 
 思わず手元が狂ってボリュームをとんでもない音量にしてしまい、カルナはためらったが結局、そのままにしてハイヒールに足を突っ込んだ。どうせ動揺するのが避けられないのなら、大音量の音楽で誤魔化してしまえばいい。カルナらしくもない逃げ腰ではあったが、そのことを自分で意識してはいなかった。

 そのとき、カルナをつらぬかんばかりに見据えていた、男の視線があまりにも強かったから、カルナはいつにも増してぎくしゃくとしかパフォーマンスを行えなかった。
 だから、彼がついにショーをぶち壊してカルナの腕をつかんだ時、カルナはむしろほっとしたものだ。なんにせよこれで、彼の視線に緊張しつづける羽目にならなくて済む。何であれ、彼が望むのならわれるままに与えようと思った。これまでも、誰にでも、カルナはずっとそうしてきた。
 男が――恐らく大抵のもので手に入らぬものなどない立場なのだろうが――カルナなどに何を望むのかはよくわからなかったが、それでも、彼になにごとかを望まれるというのは、カルナにとって好ましいことであるように思えた。
 だからカルナは素直に、腕をつかんで引きずられるままに、裸足はだしどころか一糸まとわぬ素っ裸のままで、ここまで付いてきたのであるが。

 男はカルナを引っ張ってきたくせに、最初に名を呼んだあとは一言も口を利こうとしなかった。
 車に乗り込んでしまってから、カルナは幾度も、彼に話し掛けようとしたのだけれども、元より口下手なカルナには話題すら何もなく、口を開くきっかけが見つけられずに右往左往した。
 ようやく、男が取り出してカルナをそっちのけにして通話を始めた携帯電話が、最近発表されたばかりの最新機種であることを見い出し、カルナはその事実を口にしてみた。
 カルナ自身は携帯電話は年代物の中古の機種しか持っていないが――一座と興業の連絡を取るのに必要なのだ――スマートフォンの新しい機種を手に入れるのはとても重大な問題であるらしい。
 少なくとも、カルナがバイト先で知り合った若い男性はみなそう考えているらしかった。従って、カルナも散々自慢されたその機種を見分けることができたのだが、男の反応は余りかんばしくなかった。
「最新の機種なのだろう、知っている」
「……そうか」
 いかにも無理矢理絞り出したという感で、呆気にとられた男から発せられた一言ではあったが、カルナは会話が交わせたことで満足だった。
 これを切欠きっかけにもっと会話を試みよう、出来れば男の名前も聞いてみようと意気込んだのだが、残念なことに、車はちょうどその時目的地に到着してしまい、会話は尻切れとんぼに終わった。

 男がカルナを引っ張って、豪華絢爛としかカルナには形容のしようのない部屋を通り越し、そのホテルの部屋は一室だけではなく、複数の部屋から構成されているようで、何故かホテルの廊下とは別に部屋の中にある廊下(カルナ自身にも意味がよくわからなかった)を抜けて、……入っていった先が、ばかでかいサイズのダブルベッドが何故か二つ備え付けてある寝室だったので、カルナはほっと息を吐いた。
 結局ホテルの寝室に連れて来られるだけのことならば、これまでもあったし、別にそうおかしな事態という訳でもない。
 だが、何故か残念な気がするのも確かであった。何か、この男ならきっと、これまで繰り返してきたのとは違う展開があるのではないかと、それが具体的に何なのかはわからないが、そんな期待が恐らくカルナのうちにあった。勝手なことではあるが、それで、こうして連れ込まれたホテルのスイート・ルームにどこかしらがっかりしているのかもしれなかった。
 男はベッドを通り越してずんずんとカルナを引っ張っていき、バスルームの扉を開いてカルナを押し込んだ。
 タイル張りの部屋に猫足のバスタブがえてあり、その中になみなみと湯気を上げるお湯が張られていた。白と金色を基調にしたバスルームの片隅にはガラス張りのシャワーブース、また別にガラス張りのトイレがあった。
 何故トイレをわざわざガラス張りにする必要があるのかカルナには全くわからなかったので、男に聞いてみようと思ったが、彼が余りに思い詰めたような必死な顔をしているので止めた。
「……ここでお湯を使いなさい、……すみませんでした、無理に連れ出してしまって、その、酷く冷えているようだから」
 男はようやくここでつかんでいたカルナの上膊じょうはくのあたりを離し、その、真っ白いカルナの腕が、余りに長く、あまりに強く掴まれていた為に、紫色に変色して赤い斑点のようなものまで、手の形に浮いているのにぎょっとしたようだった。
「すっ……すみません、こんな……手荒なことをするつもりでは」
 男は愕然がくぜんとしたように言い、カルナは頷いた。
「気にすることはない。オレはどうも、すぐにあざになる性質たちだ。別に手荒というほどのこともなかった」
「何を……言っているのです、おまえは……」
 なぜだか相手はショックを受けているようだったが、カルナは、ようやく静かな空間で男の声が聞けたことに満足していた。彼の声は柔らかく穏やかで響きがよく、バスルームで心地よく響いた。
「……ともかく、早く温まりなさい。酷く顔が青い。……すみませんでした」
「お前は?」
 カルナはごく自然に聞いたのだが、男は目を丸く見開いて首を振った。
「……私はいい。上がったら声を掛けて下さい」
「何と呼べばいい? お前の名前は?」
 ようやく彼の名前を聞けると、カルナはやや勢い込んで口にしたのだが、その瞬間、男が目を見開いて、世にも悲しそうな表情をしたのに、カルナは呆気にとられ、胸を打たれて、何も言えなくなってしまった。
「……アルジュナです。では、どうぞ」
 彼は静かにそう答えてバスルームから出て行ってしまい、カルナは途方に暮れて、返しそびれたコートをどうするべきかとうろうろと辺りを見回した。

 アルジュナはバスルームにカルナを押し込んでから、どさりとベッドに腰を下ろした。行儀は悪いが、構っていられる精神状態ではなかった。
 カルナは、アルジュナの名を知らなかった。
 それは、当たり前だ、だいいちあのマンションの一室で出会った時、カルナはアルジュナの顔を見ても、何の反応も示さなかったではないか。
 だが、カルナに名を問われた事実は、自分で思っていたよりも遙かに重くアルジュナを打ちのめしたようだった。あの、カルナは自分を知らない。このアルジュナを。
 思えば記憶にあるのよりも以前、神話の時代のはるかな記録で、カルナと初めて顔を合わせた時、彼は既にアルジュナのことを知っていた。カルナに名を呼ばれるのが当然だと思っていたのだと、今更気付いてアルジュナは両手に顔を埋めた。
 カルナの、恐ろしいほど細い、青白い腕につけてしまった、無残な手の形のあざを思い出す。既に青黒く変色しだしたその鬱血うっけつの痕は、まぎれもなく、思わず手加減もなく、全力を込めて握り締めてしまっていたアルジュナのせいだった。
 アルジュナの記憶にあるカルナは、常に自分よりも――認めることはなかったが――強く、呆れるほど頑丈で、どれだけ細く見えても、アルジュナが全力を籠めて掴んだ程度で痣が残るなどありえなかった。
 サーヴァントではないのだ。神代の時代の半神でも。
 今更ながらに現実が真に迫ってきて、アルジュナは思わず震えた。カルナは、カルナが、異国の地で、どう見ても場末のいかがわしいセックス・ショーで見世物にされて生きる糧を稼いでいる。その彼を酷い偶然で見つけた自分は、思わず引きずってきてしまったが、いったい――何故カルナは附いてきたのか。何故誰も止めなかったのか。
 頭が混乱していた上に酷く怒っていた――宿敵にか、自分にか、その怒りの対象は判然としなかったけれども――アルジュナは、カルナが抵抗しないのはともかく、誰もとがめ立てせず自分がカルナを引っ張ってくるのが当然のように考えていたけれども、これは、自分は、立場と金にあかせて、卑しい身分の彼を買ったのか。
 そうして、カルナの側もごく当然のようにそう考えているのだろうと、ようやく冷静になったアルジュナは現実を再確認して酷く消沈しょうちんした。

「すまない、遅くなった」
 ぱたりとバスルームのドアが閉じる音がして、カルナがぺたぺたと裸足で出てきた。そう言えば部屋履きさえも渡してやっていなかったから、彼はあの部屋からずっと裸足だったのだ。
 そんなことにさえ気付いていなかった自分に酷い嫌悪感を感じて、アルジュナは思わず動揺した。
「あ、いえ……」
「これを。助かった。……クリーニングして返した方がいいだろうか」
 また一体こいつは何を言っているのだとアルジュナは脱力し、カルナが引っ込めようか迷いつつ差し出している自分のコートを受け取った。
「……必要ありません。というか、あなた、一体何故附いてきたんです」
 我ながら酷い言い草だとアルジュナは余計憮然ぶぜんとしたが、カルナは気にした様子もなかった。
「お前に引きずられたからだが」
「ですよね」
 そうではなく、と言うのは諦めた。何がそうではないのかアルジュナ自身にもさっぱりわからなかったし、このまま話していてもカルナと会話が通じそうもなかった。
 アルジュナは深々と溜息をついて、コートを――律儀にも――ルームキーパーが扱いやすいよう袖を中にして丸めて放り出し、突っ立っているカルナを眺めた。
 幸い、カルナはバスルームにあったガウンを羽織っており、髪の毛がびしょ濡れでぽたぽたと水滴を長い毛足の絨毯に落としていること以外は、さっきよりはまともな格好をしていた。化粧は落としたらしく、顔色はつるりと先程より余計に白いくらいだったが、真冬の戸外を素っ裸で連れてきてしまった彼の、首筋からなにから恐ろしいほど冷え切って青ざめていたのは、お湯で温まって少しは血色もよくなっていた。
「……暖まりましたか?」
「ああ。……いいお湯でした」
 アルジュナはもう一度溜息をついた。
「本当に、申し訳ありませんでした。乱暴なことをするつもりではなかったんです。ただ、おまえが……いえ、すみませんでした」
 カルナはなにかまぶしいものでも見るかのように目をまたたかせた。
「いや、構わない。少し驚いたが、そんなにも熱心にオレを求めてくれるのは嬉しい」
「……あなたを」
 アルジュナは呆然として呟き、カルナは困ったように首をかしげた。
「む、違ったか。これは失礼をした。オレはてっきり、ショーの他にプライベートなサービスを望まれているのかと思ったのだが、そういうことではなかったか」
「いえ……それは……それは違う、のですが」
 そう言ったものの、では何故自分がカルナをここまで連れてきたのか、一体彼にどう説明してよいものかアルジュナには判らなかった。前世の記憶で自分たちは宿敵同士だったから? 莫迦ばかは休み休み言え。そんな理由を言えるものか。
「そうだったか。ならばオレはどうすればいい?風呂まで借りてしまったが、このまま帰るのならば是非もない。捨てるような衣類があれば借りることはできないだろうか。図々しい願いではあるが」
「ずう……いえ、あなた、私を一体なんだと思っているんです」
 そう言ったものの、カルナはアルジュナのことなど何一つ知らないのだから、不当な台詞だと考えてアルジュナは内心暗澹あんたんとした。
「そんな、勝手に無理矢理引きずってきて、ここで裸で放り出したりしませんよ。戻るときはちゃんと着るものもあつらえて、住処まで送ります。そんなことより、何度も言いますがすみませんでした。お詫びにあなたの望むものなら何でも言って下さい、私の及ぶ限り用立てますから」
 そうは言ったものの、アルジュナは、カルナは先程の如く、無欲なところを見せて何かをくれとは言い出さないだろう。金や物品で詫びればよいというものではないが、せめて彼がどうにか、あのようないかがわしい世界に身を投じずとも生きていけるだけの、と考えたところで、カルナが小首をかしげて切り出したのに思考を中断された。
「何でも良いのか?」
「……はい。他でもないあなたが望むのならば、どんなことをしてでも叶えてみせます。言って下さい」
 アルジュナは、文字通り誠心誠意を籠めて答えた。本当に、カルナが――この聖人のような男が何かを望むのであれば、たとえどんな事であっても叶えよう、そうしなければならぬ、と思った。
 カルナは、相変わらず無表情な顔をかしげたまま、平坦な声で言った。
「それでは、この部屋で一晩、過ごさせて欲しいのだが」
「ええ、はい……え!?」
 アルジュナが呆気にとられてカルナを見上げると、彼はまた首をかしげた。
「駄目ならばいい。他に望みはない」
「……いいえ、前言をひるがえしたりはしませんが、しかし、何故です?」
「何故だろう」
 カルナは真剣に判らないと言うように問い返し、おもむろに腕を組んだ。
「……何故と問われると、オレにもしっかりとは判らないのだが。オレは時折、こうしてホテルの部屋などに呼ばれることもあるのだが、そのおり名を呼ばれて、嬉しいと思ったのはお前が初めてだった。それに、随分と無茶な方法だったとは思うが、オレをあれほど真剣に求めてくれたのも、お前以外いないように思う。だからオレは、お前に何も与えるものがないまま、この部屋を去るのが惜しいように感じている、のだと思う」
 カルナは考えつつ、時折つっかえながらそう言って、自分の言ったことに満足したように一つ頷いた。アルジュナは呆気にとられ、カルナの顔を見返した。
 またそんな無法な生き方をしているのか、請われれば与えると、自分がその範疇はんちゅうで理解されているのは腹立たしかったが、カルナがただ、名を呼ばれて嬉しいと言ったことが、アルジュナの混乱した心に唯一救いだった。
「カルナ」
「なんだ」
「あなたは私に名を呼ばれるのが嬉しいのですか?」
「ああ。どうしてだかは、判らないのだが……その」
 カルナは困ったように言いよどみ、アルジュナがうながすようにじっと見返すと、躊躇ためらいながら続けた。
「……オレもお前の名を呼んでもいいだろうか。……その、不快でなければだが」
 遠慮がちにそう聞いてくるのに、アルジュナは、この男も他人の気持ちを推し量ることを覚えたのだろうかと感慨を覚えた。この世界、この時代では、思うにまかせる生き方は難しかろうが。
「不快などと、そんなことはありませんよ」
「そうだろうか。……アルジュナ」
 カルナは、まるではにかむようにその名を口にし、アルジュナは思わず唇を噛んで、彼の目をじっと見上げた。
 あの部屋では色の判らなかったカルナの瞳は、記憶にあるのと同じ、薄い水色をしていた。髪は不自然なまでに白く、肌は抜けるように白い、と言いたいところだったが少しくその肌は荒れて、あまり大切に扱われていないのがよくわかった。
 アルジュナはもとよりカルナを、彼の魂を知っていた。だからその姿を目にしたときに、決して奇異には思わなかったのだが、この異国の地で彼の容貌は、一体どのように受け止められているのだろう。
 アルジュナは思わず、今の彼には遠い、誰か他人の記録としか思われぬ、神代の頃を思い出した。カルナは孤独だった筈だ。あのときも、彼の白い肌白い髪は異様に人々の間から孤立していた。現代に至るもそうなのだろうか。
「はい、カルナ」
 カルナはその無表情を一瞬崩して微笑んだように見えた。
「ああ、やはりお前に名を呼ばれるのは好ましい。そうだな、先程の願いはやはり不遜ふそんだったか、ならば今、お前の名を呼べたことでよしとしよう」
莫迦ばかですかあなた」
「む」
 アルジュナは心底呆れたという顔で立ち上がり、そっとカルナの、ローブに隠された腕に触れた。
「本当に、すみませんでした。カルナ。けがをさせたい訳ではなかったのですが、私の不注意で傷つけてしまった。あなたはその調子ですから、お詫びは何か私の方で考えます。ですから、それとは関係なく、――今宵は、私と過ごしてくれますか?」
「是非もない」
 カルナがまた、何故か眩しそうな表情をしたのに、アルジュナは微笑んで彼の髪を撫でた。
「ああ、長話をしたせいで、冷えてしまっていますね。こちらへいらっしゃい、カルナ。髪を乾かしてあげましょう」
「む……すまん、いいのか? お前は親切なのだな」
 カルナがそんなことを言うのがやはり、寂しくもの悲しく、それでも彼がアルジュナの手招くとおり、警戒心もなくちょこんとベッドに座って、髪を乾かされるのを待っているのはなんとなく、野生の動物になつかれたような妙な感慨があった。
 アルジュナはバスルームからドライヤーを持ち出し、丁寧に指でその白い髪を梳きながら乾かした。彼の髪はぱさぱさと痛んで、切れ毛も目についた。一体どのような半生を歩んできたのだろうと思いながらアルジュナは、カルナが心地よさげに目を細めて大人しく髪を乾かされているのを、どうしようもなく愛しく思うのだった。
 ああ、今生の、このカルナをも、私は既に愛していたのか。
 腑に落ちれば心は返って静かにいだ。アルジュナはただひたすらに柔らかくカルナの髪を乾かしながら、指の間を滑り落ちる髪の、はかない感触を愛おしんでいた。

 カルナの髪を乾かし、ヘアクリームをつけてやると、カルナは慣れないように自分の髪をくんくんとぎながら、アルジュナに礼を言った。
「感謝する――お前は随分と器用なのだな」
「そうですか? まあ、そう言われることは、多いかもしれませんね」
 アルジュナは立ち上がってバスルームにドライヤーを片付け、ルーム・サーヴィスにコールして、温かい紅茶とココアを持ってこさせた。
「カルナ。今、温かい飲み物を持ってこさせますから、好きなものを飲んで待っていてください」
「どこかへ行くのか?」
 カルナが一瞬心細げな表情を見せたので、アルジュナは思わず胸をかれたが、はっと我に返って首を振った。
「いえ、私もバスルームを使ってきます。酷く煙草臭いですから」
「そうか? まったく判らなかった」
「お前はあの空間に慣れすぎだ。……いえ、すみません。また……」
「? どうかしたのか?」
「いえ。……ともかく、失礼します」
 アルジュナは溜息をついてバスルームに引っ込み、なるべく手早く身体を洗った。カルナは律儀にもバスルームを使った後簡単に掃除してお湯を張り直したらしく、バスタブのお湯はまだかろうじて温かかった。アルジュナはそのお湯に身体を沈めて、また深い溜息をついた。
 例のいかがわしいパーティで息を詰めていた反動のように、ホテルに戻ってきてから溜息ばかり吐いている。よもやカルナと共にいる間に、こんな気の抜けた様を晒すことになろうとは思わなかった。
 だが仕方ない。今の二人は宿敵ではなく、カルナはアルジュナを何一つ知らない。かつて彼に向けられた敵意も、憎悪も、今となっては己があれを心地よく思っていたのだと、尚更なおさらに思い知らされるようだった。
 バスルームの外から人声が聞こえて、アルジュナはふうと息を吐き出してバスタブのお湯を抜いた。全身を洗い流して髪を拭く。ああ言ったが、カルナの性格からして、アルジュナが風呂を上がるまで、飲み物が冷めるのも構わず律儀に待っていそうだった。

「早いな」
 カルナは目を丸くしてそう言い、やはり、ワゴンに載せられたココアと紅茶のポットは手をつけられた様子がなかった。
「ゆっくりお湯に浸かる気分でもなかったので。それよりカルナ、飲んで待っていて下さいと言ったのに。冷めてしまいますよ」
「む。どちらがお前の分か判らなくてな」
 アルジュナは溜息をついて、カルナの目が若干長くとまった方、純銀製のココアのポットからカップになみなみと注いだ。
「どちらも二人分くらいはありますよ。どうぞ」
「すまんな」
 カルナは目を輝かせて泡立つココアを受け取り、いかにも幸せそうにそれをすすった。
「うまいな」
「そうですか、よかったです」
 アルジュナは自分も紅茶を注ぎながら答え、カルナは瞬く間にカップを飲み干した。
「……ひょっとして、おなかすいているんですか? あなた」
「まあ、そうだな、ショーの前は数時間前から食事を抜くことになっている」
「それは……いえ、少し待っていて下さい。何か食べたいものはありますか? ……いえ、食べられないものはありますか?」
「いや、食えるものなら何でも有り難くいただくが」
「そうですか。少し待っていて下さい」
 アルジュナはまたルーム・サーヴィスを呼びつけて、何か軽い食事を、消化に良い穏やかなものをと言いつけて、それから溜息をついて、湿布と塗り薬を持ってこさせた。
 カルナは二杯目のココアをいそいそと飲んでいたが、アルジュナの様子に首をかしげるようだった。
「お前は親切なのだな」
 カルナはまたそう言い、不思議そうにアルジュナを見詰めた。
「こんなにまでしてもらっても、オレには返せるものがないが。……その、誠心誠意、努める積もりではいるが、オレは所詮奇形が珍重されているだけだ。お前の期待に添えるとは思えない。後でガッカリされても困る」
 カルナはそんなことを言ったが、アルジュナは彼のその物言いが、どことなくかつてのカルナを――当人はそんなものあずかり知らぬのだが――思い出させるのに、思わず目を細めた。
「別に、そんなことを期待してあなたに食事を御馳走ごちそうするわけじゃありませんよ。安心して下さい、カルナ。あなたが嫌なことは決してしません。あなたが望まないのなら、決して、指一本だって触れません」
「む、それは……困る」
 カルナはそう言って、本当にどうしていいかわからないという表情を浮かべた。
「それではオレは、これほど親切にしてもらっているのに何も返せない。それに、」
 珍しく言い淀んだカルナに、アルジュナは先を促した。
「それに、何です?」
「……それに、それではオレが……惜しい、おまえに、触れてみたいと、思っている」
 カルナは言いにくそうにそれだけ言い、珍しくも白い頬をわずかに染めた。アルジュナは呆気にとられて彼を見詰め、それから恐る恐る手を伸ばして、ワゴン越しにその唇にそっと触れた。
 今度は、触れることができた。
 アルジュナは圧倒されるようにそう思い、触れた唇が、風呂に入り、温かいものを飲んだ後だというのに、かさついて荒れているのを悲しく思った。
「カルナ。食事をしたら、腕のあざを手当させて下さい」
「必要ない。たいした事ではない」
 カルナのにべにもない物言いに、アルジュナは今更ひるまなかった。
「必要あります。痕が残ったら困るでしょう、あなた」
「む、それは……」
 困った顔をするカルナに、アルジュナは微笑んで見せた。

 どうもカルナはこういったことではひどく押しに弱いようで、アルジュナはそのうち、彼がほとんど何でも、その冷たい物言いに負けず押しさえすれば言うことを聞いてくれることに気がついた。
 隣の部屋に移動して、二人してガウンのまま軽い夜食を食べた後、湿布と包帯で指の形がくっきりと残ってしまった痣を手当した。
 そのときカルナの肌が酷く荒れてかさついていることに気付いたアルジュナは、ボディークリームを塗らせてくれと頼み込み、カルナは、そんなことを客にさせる訳にはいかないし、だいたいベタベタするものを塗るのは嫌いだと突っぱねたのだが、アルジュナは引かずに押し続けて結局は許可を勝ち取った。
 ベッドに腰掛けて手当していたのを、そのまま軽く押して後ろに転がす。するりとガウンを脱がせると、白い、痩せた身体があらわになった。
 身体で稼ぐ生業にもかかわらず、自分自身の身体を気をつけて手入れする習慣がないのだろう、カルナの肌はかさついて、肘などはほとんどあかぎれのようになっている。
「嫌な匂いではないですか?」
「特に不快な匂いではないが」
 部屋にいくつか備え付けてあるクリームを適当に選んで手に取り、カルナに匂いを確かめさせると、困惑しつつも律儀に返答がある。
「しかしアルジュナ、オレなぞにそんなことをする必要はない。むしろオレの方がお前にマッサージでもしてやらねばならんのではないか」
「私が無理に引っ張ってきてしまったのですから、お詫びと思ってください。それに、あなたにマッサージなんかさせたらうっかり骨が折れそうです」
「む……そこまで馬鹿力ではないぞ」
「下手くそなのは認めるんですね」
「……」
 軽口を叩きながら、包帯を巻いた腕をそっととり、荒れた手の甲から指、手のひらまで丁寧にクリームを塗り込めた。
「本当に、酷く荒れてますね。……もう少し、自分に気遣ってあげてください。こんなにも美しいのだから」
「美しい? オレが? ……それは」
 困ったように顔を歪めるのに、包帯に掛からないよう気をつけながら、そっと上腕までクリームを塗っていく。カルナはどこか途方に暮れたような顔をした。
「美しいでしょう、誰もあなたにそう言わなかったとは言わせない」
「……そうだな、だが、所詮この身体だ。珍しい動物を愛玩するのと大して変わらない。それに、オレは……何故だろうな、お前にはそう言われたくないと思う。不思議な話だとは思うが」
 アルジュナは頷き、二の腕の内側にまで愛撫するようにクリームを塗り広げて、そっとカルナの白い下腹に触れた。そこはぺたりと平たく、薄くしっかりとついた筋肉の感触を伝えてきたが、女らしいまろやかさなどはどこにもなかった。その下には、守るべき恥毛もなく、つるりとあらわな股間があり、それは確かに異様な美しさだった。
「たしかに驚きましたが、おかしいとは思いませんでした。カルナ、あなたはきれいなひとだ。私はそのことを知っています。あなたの魂が高潔で、美しいことを知っている」
 カルナは呆気にとられたように、仰向けに目をぱちくりさせた。
「……お前は、オレを知っているのか? オレはお前に、会ったことがあっただろうか。すまないが、思い出せないのだが……」
「そうですね。私は……お前を知っています。覚えていて欲しかった、いいえ、どうなのでしょう。今となってはもうわかりません」
「……そうか、オレはまるで思い出せないのだが、お前が言うならそうなのだろう。すまないことをした」
 アルジュナは静かに首を振った。理不尽なことはよく判っている。カルナは困ったように眉根を寄せていたので、その眉間をクリームを載せた指でそっともみほぐしてやった。
「私の戯れ言です。そんな顔をしないでください」
「そうなのか? オレはよく、冗談が判らないと言われるが……」
「そういうのも、あなたらしいと思います」
「む……」
 カルナを勝手に困らせておいて、アルジュナは無心にその肌にクリームを塗り込み続けた。よい香りのするクリームを荒れた肌に塗り広げ、何度も温かい手のひらで擦ってすり込む。反対の腕も、手の甲から手のひら、指の間をゆっくりとこすり、肘のひびわれたところは避けるようにして、二の腕から肩まで丁寧にマッサージすると、カルナが心地よさげに吐息を漏らした。
「気持ち良いですか?」
「ああ。お前は上手いな」
「それならよかった」
 肩から平坦な胸まで塗り広げ、手のひらで腹まで撫で下ろす。カルナは抵抗も見せず、心地よさげに目を細めてされるがままに任せていた。
 部屋は心地よく暖かく、裸のままでも一向に寒くはないらしい。アルジュナはカルナの細い足を取り、足首にそっっとクリームを塗り込めたが、カルナは抗議する様子でもなかった。
「……よかった」
「何がだ?」
「……足には、傷などついていませんね。裸足で引っ張ってきてしまったから、傷などしていたらどうしようかと――あなたは教えてくれないでしょうから」
「裸足といってもほとんど屋内だ。怪我などしようもない。お前は、少し心配が過ぎるのではないか」
「誰かに、心配されるのに慣れていないのですか?」
 カルナの抗議に疑問で返したアルジュナに、それでも彼は律儀に考えるようだった。
「……ようこさんは、よくオレのことを心配してくれる」
「……ようこさん?」
 当たり前ではあるのだが、カルナの口から知らぬ人間の名前が出るのは何処となし心が痛かった。最早自分の知らぬ人生を送っているカルナが、いまだに受け入れられないのだ。
「ショーの仲間だ。源氏名だから本名は知らない。オレは不安で見ていられないのだそうだ」
「気持ちはわかります」
「む……」
 アルジュナは溜息をついて、カルナの足にクリームを塗り込めた後、ふくらはぎを軽くマッサージしてやった。カルナは心地よさそうに足を伸ばして、アルジュナに完全に身を任せている。
 ふくらはぎから太股へクリームの滑りを借りて手を滑らせると、柔らかく身体を震わせた。太股の付け根まで両手ですりあげて、もう片方の足を手のひらで包む。
「寒くありませんか?」
「いや、大丈夫だ。お前の手は温かいな」
「そうですか。……あなたの手も、温かいですよね。あまりそうとは見えませんが」
 かつて頬に触れた手の感触だけを唯一覚えている。サーヴァントに体温もあるものかと思ったが、そのときカルナの手は確かに温かかった。
「そうだな、冷たそうだとはよく言われる。……いや、間違ってはいないのだろうが」
 カルナが冷たい? アルジュナはあたたかなカルナの身体をそっと愛撫しながら首を振り、カルナは戸惑ったように何度か瞬いた。
「……アルジュナ」
 まだ名を呼ぶのはためらうようで、そっと、戸惑いがちにささやく。アルジュナの触れる手に情欲が籠もるのを感じ取るのか、小さく首をかしげて、上半身を起こして見せた。
「この身体に、お前が欲情するのなら。オレは構わない。お前の望むようにして欲しい。なるべくは期待に添うよう努力しよう。だが、本当にオレにそれだけの価値があるのか? 後悔する前に考えた方がいい」
 カルナは、舞台でしたように膝を立てると、自分の手で性器を開いて見せた。幼い子供のような無毛の性器は、クリトリスがやや大きく、陰唇はわずかに縮れて、あんな芸をしてみせていたのだから明白なことではあったのだが、処女ではないことが容易に見て取れた。肉の襞はぴったりと閉じ、性的な興奮を感じていないことを示すように、そこは乾いていた。
 アルジュナは目を細め、カルナの手を取って無惨むざんな真似を止めさせた。
「お止めなさい。あなたが望まないことはしません。そう言ったでしょう。……あなたの身体は綺麗ですよ、カルナ。後悔などするはずもない。ですが、そんなにも痛々しいことをさせたい訳ではない」
「……ローションでも使えば、別に苦痛がある訳ではない。特段優れた技術があるわけでもないが、性交は可能だ」
 アルジュナはもう一度首を振り、カルナの身体を抱きかかえるようにしてそっと枕の上に寝かせた。
「私も、隣に寝ても構いませんか?」
「お前のベッドだろう。好きにするがいい」
 アルジュナは溜息をついて、そっとカルナの隣に横たわり、遠慮がちに細い身体に腕を回して、さっき自分が乾かしてやった髪を撫でた。
「……よく、こんなことがあるのですか?」
「こんなこと? いや、これほど立派な部屋に呼ばれることなど滅多にないが……ショーの後に、プライベート・サービスを要望されることは時折はある。まあ、一座で特に売春を斡旋あっせんしている訳ではないから、オレの本職という訳でもないし、大概同じ相手からの二度目はない」
「なぜ」
 カルナは眉をひそめた。
「先刻見せた通りだ。オレは他人に性的な関心を抱いたことがないし、性的な刺激を受けて興奮したこともない。幸い性的には受け入れる役割だからそれでもどうにか用は足せるが、そういうのは酷く虚しいものなのだろう?」
 オレにはよく分からないが、とカルナは言って、本当に判らないと言いたげに小首をかしげた。
「ほとんどの相手は、そんなことは構わないだの、直ぐに治るだの治してやるだのと言って始めるが、大概最後はオレを酷くののしって終わるな。そういうわけで、後悔しないのならと言ったのだが」
 アルジュナは苦笑して、カルナの身体を引き寄せた。
「なるほど。……カルナ。いらっしゃい。背中を塗り残していましたから、クリームを塗ってあげましょう」
「……お前は大概妙な男だな」
 カルナは失礼極まりないことを言ってアルジュナの顔を至近距離でじっと眺めたが、アルジュナはその視線に僅かに目を細めただけで、そっと回した腕でカルナの背を愛撫するようにクリームを塗り続けていた。
「まあ、そうですね、その愚かな男どもの気持ちなら、多少は判るような気がしますよ」
「む」
 カルナが目をしばたたかせるのに、アルジュナはちいさく首を振った。
「お前はとても綺麗だから、みな男は汚してやりたくなるのでしょう。だがそうしてお前は揺るがないから、結局尻尾を巻いて逃げ出す。罵倒は負け犬の遠吠えですよ」
「そう言った時は殴られたので黙っているようにしている」
 アルジュナは吹き出して、クリームを塗りおえて少しはなめらかになった彼の背中をやわらかく抱き寄せた。
「お前の身体も、心も欲しい、と思います。だがどちらもそう簡単に私の手に入るものではないことくらいは、これでも理解しています。だからせめて、お前を愛おしみたい。そうさせてはくれませんか、カルナ」
 カルナは困ったようにアルジュナの腕の中でうろうろと目を泳がせ、結局彼の肩に額を預けた。
「……お前には、罵倒されて憎まれたくはない」
「そう思ってくれたのなら嬉しいことです」
 アルジュナは静かに答え、カルナは眉をひそめた。
「その、……勃起しているようだが。セックスの気が進まないのなら、手淫か、口淫でもいいが」
 カルナは手を伸ばしていきなりアルジュナの股間を掴んできたので、アルジュナはさすがにぎょっとして彼を突き飛ばした。
「ちょ、止めなさい! ……ああ、すみません、つい……ですが、あなたが悪いんですよ、これでも必死に我慢してるんです、お前の身体は魅力的だから……」
 アルジュナは再びカルナを抱き寄せながらふてくされたように言い、カルナは困ったようにまた目をしばたたかせた。
「別に、我慢をする必要もないだろう。セックスしたければすればいい」
「お前が構わなくとも私は構います。ええ、そうですよ、カルナ、おまえとセックスしたい、死ぬほどしたいです。お前の、あたたかな身体に深く埋まって思い切り溺れたい。お前を感じさせて身も世もなく啼かせたい。けれどもどうしようもないでしょう、私はお前を愛したいのであって、お前に犠牲を強いたいのではない。お前が望まないのなら、たとえ世界が滅ぶとしたって、誓って無体なことはしませんよ。ですから、どうか、わたしを信じて下さい、カルナ」
 カルナは居心地悪そうにひたすらもぞもぞとしていたが、ややあって、困り果てたようにもそもそと、アルジュナの胸に顔を押しつけるようにして呟いた。
「お前は若干頭がどうかしているのではないかと思う」
 アルジュナは大真面目に頷いた。
「それに関しては私も同意見です。珍しく気が合いますね、カルナ」
 アルジュナは枕元のパネルに手を伸ばして照明を落とし、器用にカルナの身体を抱いたまま上掛けをたぐり寄せた。
「眠いのなら寝てしまってください。一晩、どうかこのままで。お前の身体を抱いていさせてください」
 カルナは困り果てたように、アルジュナの名を呼んだ。
「……アルジュナ」
「はい、カルナ」
「オレが、お前にしてやれることはないのか」
「……あなたがこの腕の中にいて、辛い思いもせず、寒くもなく、できることならぐっすりと眠ってくれれば、それが何よりのさいわいです。あなたが思うより遙かに多くのものを、私は受け取っています。カルナ」
「……そうか」
 まだ完全に納得したようではなかったものの、流石に疲れていたのだろう、しばらくしてカルナはすうすうとアルジュナの腕の中で穏やかな寝息を立てだした。
 アルジュナはといえば、心が千々に乱れて眠くなるどころではなかった。
 カルナが、あのカルナが、己の腕の中で安心しきったように裸の身体を預け、規則的な寝息を立てて眠っている。むき出しの胸に父神の加護かごの宝玉はなく、人間としての彼の身体は酷く薄く、貧弱で、白い肌は傷つきやすく、がさがさと荒れていた。
 カルナは無防備で、頼りなく、酷く無力な存在であるように見えた。そのことがアルジュナには耐え難かった。己の生涯と運命を賭して争った宿敵が、これほどまでにはかなく、庇護せねばならぬ対象のように見えるのは。
 だがこの輪廻、この時代この世界においても、カルナの魂にいささかの変わりもなく、相変わらず人のものならぬ程に高潔で、美しい。それがゆえに何もかもを惜しみなく与えようとする彼が、痛々しいほど哀れに見えるのだった。
 アルジュナはあたたかなカルナの身体を、起こさぬように気をつけながらそっと抱きしめ、時折額に掛かる髪を梳いた。カルナはくすぐったそうにむずかり、アルジュナの肩に額を押しつけた。
 到底眠れるはずがないと思ったものの、アルジュナもやはり、酷く疲れていた。そのうちにうとうとと眠気が差し、カルナの身体を抱いたまま、アルジュナもいつしか眠り込んでいた。