ある晴れた日に- 第二章
カルナの記憶は夕暮れの公園から始まる。美しい茜色の夕日が木立の向こうから落ちて、すべてのものを緋色に染め上げていた。カルナはたった一人で、誰も乗る者のいないブランコの前に立ち尽くし、その夕日を眺めていた。
年齢は十やそこらであったように思う。その公園より前の記憶をカルナは持たず、自分の両親も、家も、どこからその公園に来たのかさえも記憶していなかった。ただ自分の名前だけを覚えていた。
カルナ。
それが彼の名前だった。そのことだけは何故か固い確信があった。
そのうちに夕日が沈み、夜が来て、春の宵の寒さにしんから凍えながら公園のベンチで眠り込み、朝になって死んだように眠っている子供を見つけた近所の主婦が通報して、カルナは保護された。
幽霊か、化け物かと思った。と通報した主婦が言った通り、白い髪白い肌、青い目のカルナを、保護した警察署でも、その後移された児童相談所でも扱いかねる様子ではあったが、子供は不自由なく日本語で話した。
何か役に立つ情報を話せたという訳でもなかったが。
子供は何も覚えておらず、警察では捜査が行われたようだが、性的な虐待の痕跡もあったことから、いずれにせよ子供は施設に送られることになった。カルナは納得して新しい生活を受け入れた。
施設の暮らしは悪くはなかった。カルナは異質すぎる故か、時折こうした施設で避けようもなく発生するいじめの対象にすらならず、夜中に布団をかぶせられて蹴られている子供がいれば、不文律を破って助けに入った。そうすると私刑に加わっていた子供達も困ったような顔をして、なんだカルナかと言いたげに、自分たちの寝床へ戻っていくのだった。
施設内にある菜園の手入れをするのが一等好きだった。早々にそこはカルナの縄張りと認識されて他の子供達は入ってこなくなったが、それは特に構わなかった。どこかの農家からもらい受けたらしい、ぼろぼろになった鍬やスコップで小さな畑を耕してじゃがいもなど植えていると、心底楽しかった。
食事も美味かった。それまでどんな食事をしていたかはよく覚えていないが、施設で出される給食をカルナは美味いと感じたし、量も十分にあって争いもなく皆が食べられる。
カルナは心底から満足して、その施設で平和に暮らしていた。小学校の方は残念ながら、施設ほど平穏にはいかなかったが、カルナの持ち物を隠しても仲間はずれにしても、放課後の校舎裏に呼び出しても彼が平然としているのに恐れをなした子供達はそのうち彼に構わなくなり、卒業する頃にはどうやら平和になった。
中学校に上がってまたそのプロセスを一から繰り返すのは面倒だったが、カルナは辛抱強く、悪意を受けても善意を受けても平等に返した。それが彼が忌避される一番の原因ではあったのだが、本人は気付いていなかったし、気付いたとしても止めることはなかっただろう。
その時点では、カルナは女児として扱われていた。与えられる服も女物だったし、制服もセーラー服を着ていた。
十五歳になっても初潮がないというので検査を受けることになり、染色体の異常が発見されて、カルナが本来は男性であると判明した時、施設の職員たちは皆呆気にとられていた。戸籍をどうの登録をどうのといろいろと面倒だったらしいが、カルナは黙って書類に名前を書いているだけだったからよく知らない。
しかし、判明した性別にほっとしたのは事実だった。何故だかは判らないが、カルナ自身は自分をずっと男性であると認識していたし、どれだけ直されても、言葉遣いも、自分自身をオレと呼称するのも直らなかった。
現実を見れば、その身体的な異常はカルナの生きづらさをより深刻にさせるものではあったのだが、そのときはともかく安心したのだった。
「フラワー・ショー」に参加することになったのは、二十歳を幾つか超えた頃だった。中学を卒業してすぐ就職したカルナは、丁度その頃勤めていた工場が閉鎖されて職がなく、また一見して異質な彼を雇いたいという会社はなかなか見つからなかった。相談する先が出身の施設以外に思い当たらず、乏しい給与から毎年欠かさずいくばくかの寄付を続けていた施設の職員に、職がないだろうかと相談をして、それから何がどうなったものか、紹介から紹介で巡り巡って辿り着いたのがこの職場だったという訳だった。カルナの身体を検査した病院から情報が伝わっていたらしく、一座の方から打診があったものらしい。
人前で性的な行為をしてみせることに抵抗がなかった訳でもないが、月に一度か数ヶ月に一度か、何日かの公演をこなすだけで、生活の糧を手に入れられるのはありがたかった。暇になる日は何もしていないのは落ち着かなかったので、日雇いで清掃の仕事などをして時間を潰した。
悪くない生活だ、とカルナは思っている。この身体のために面倒なことも多かったが、今はその御陰で生計が成り立っている。この世界は、何事も上手くいくようにできているのだな、とカルナは感じ、あらゆることに感謝していた。
ショーの間は不規則な生活にもなるが、基本的にカルナの朝は早い。ぱちりと目を開くと、見慣れない、一瞬、昔入れられた検査室の天井を思い出したほど高い天井が目に入り、カルナは目を瞬いた。
朝方はひどく冷え込むアパートの気温とは随分と違う、心地よい温もりと、ひどく軽い、まるで重さのないような布団、なによりカルナの身体を柔らかく抱きしめる男の腕に、居心地悪くもぞもぞと動く。
眠りながら褐色の男はカルナを抱き寄せ、カルナも彼を起こすまいと、大人しくそれに従った。無意識の動きで柔らかく髪を撫でられる。
不思議な男だ。確か、名前はアルジュナと言った。寝起きの頭にだんだんと記憶がよみがえってきて、カルナは目の前で眠る男の顔をまじまじと見た。
見れば見るほど、美しい男だった。完璧な造形の高い鼻梁、伏せられた睫毛は濃く長い。唇はふっくらと柔らかそうなくせに男らしく、理想的に筋肉のついた逞しい腕は、カルナの薄い身体をやすやすと抱き込んでいる。背丈は同じ程だろうか。黒髪は柔らかなカールを描いて完璧な顔を彩っており、寝癖だろうか、一房はねた巻き毛が、隙のある可愛らしさを添えていた。
美しい男だ、とカルナは改めて思った。アルジュナのような男をカルナはこれまで見たこともなかった。昨日のショーの観客は、経済のなにやらがどうとかと――真剣に話を聞いておけばよかったとカルナは後悔した――言っていたから、きっと何れかの重要人物なのだろう。だいいちこのホテルの部屋を見れば、とんでもない金持ちであることはすぐに判る。
カルナは改めて、シーツの手触りがこれまで触れたこともないなめらかさであること、天井に貼られた木材の一つ一つでさえとんでもなく高級感があること、吊されているランプがわけのわからない複雑な形状をしていることなどを見て取って溜息をついた。
昨晩男にも言った通り、カルナにとっては、名を呼ばれて嬉しかった相手、自分から関わりたいと思った相手は初めてだった。できればもう少し関わっていたいと思ったが、この様子では到底叶わないだろう。生きている世界どころか、呼吸している空気さえ違いすぎる。
肘をついて身体を起こし、アルジュナの顔をまじまじと見下ろしていると、彼が気付いて眩しそうに目蓋を上げた。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
なんということもない挨拶を交わして、カルナは思わず感慨深い表情になった。
「どうしたんです?」
アルジュナが身体を起こしてカルナの額に掛かる髪を掻き上げながら問い、カルナは素直に答えた。
「いや、他人におはようなどと挨拶したのは一体何年ぶりだろうと思っただけだ。お前に無理を言って泊まり込んでよかった」
「……いいえ、お前に頼み込んで共に過ごしてもらったのは私ですよ、カルナ。忘れないように」
「そうだったか」
カルナは納得しがたい思いで顔を傾け、アルジュナは小さく笑って、カルナの額にキスをした。
今までカルナと寝たがった男はそれなりに居たが、彼にキスしようとする相手は、それも、性的なものではなく、親密なキスなどをしようとする物好きはいなかった。その、他愛ないキスにカルナは衝撃を受けて目を見開き、アルジュナは困ったような顔をした。
「すみません、勝手に……嫌でしたか?」
「いや。そうではない。……お前こそ嫌ではないのか」
「何故です? お前が許してくれるのなら、もっとキスしたい。……構いませんか」
カルナは絶句したまま思わず頷き、アルジュナは恐ろしいほど魅力的ににっこりと笑って、カルナの額に、それから頬に、鼻の頭に、何度もキスの雨を降らせた。
「ああ、本当に綺麗ですね、カルナ。お前がこの腕の中にいるだなんて夢のようです。……どうか、これがまだ私の夢の続きで、目が覚めると、がらんとしたホテルの部屋で一人でむなしく溜息をつくなどということになりませんように!」
アルジュナは、思わず真っ赤になったカルナに気付いたように言葉を止めた。
「どうかしましたか」
「……いや、お、まえは……その、……いやいい」
カルナはうろたえて珍しく言葉を濁し、アルジュナは首をかしげて、また柔らかく彼の額に口づけた。
「アルジュナ。……唇にはしないのか」
「いいのですか?」
アルジュナは目を見開き、カルナの目をじっと覗き込んだので、カルナは居心地が悪くなって目をそらした。アルジュナは何か言いたげな表情をしたが、何も言わず、カルナの顎にそっと手を掛けた。
羽のように軽い感触が唇に触れる。カルナはじっと目を見開いてアルジュナを見詰めていたので、アルジュナの方が今度は気恥ずかしそうに、カルナの目を片手で覆った。
「カルナ、こういうときは目を閉じて下さい」
「む、そういうものか。失礼した」
「ええ。……もう一度」
「ああ」
アルジュナは了解を得た上でカルナの唇にもういちど己の唇で触れ、カルナは言われたとおり大人しく目を閉じていたが、やがてゆっくりと触れるだけだった唇が離れていくと、ぱちりと目を開いた。
「……やはり惜しいな」
「何がです?」
「目を閉じるのが。お前の顔をもっと見ていたい」
アルジュナは赤くなって首を振った。
「お前は本当に……何だってそう、煽るようなことばかり言うのですか」
「そうか、そんなつもりではないのだが、失礼をした。セックスがしたいということならば、時間さえ問題なければ今からでも構わんが」
「……そうですね、セックスはしたいです。でも、しませんよ」
アルジュナは溜息をついて、またカルナの額にちゅっとキスをすると起き上がった。
「シャワーを浴びてきます。朝食にしましょう。わたしはいつもコンチネンタルにしています、朝はあまり食べる方ではないので。お前はどうしますか?」
「……よく分からんが、朝食ならお前と同じものでいい」
アルジュナはまた腰をかがめて、カルナの頬に両手を当てて覗き込んだ。
「あなたはもう少し食べた方がよいと思いますが。和食がよければ用意させますよ」
「……それはありがたいが、昨晩からいくら何でもお前の世話になりすぎのようにも思う」
アルジュナは苦笑したようだった。
「またそんなことを言う。かまいませんよ。だいいち、世話になっているのは私の方です」
カルナはまた納得できないとばかりに首をかしげたのだが、アルジュナはもう構わずに立ち上がるとバスルームへと消えてしまった。
相変わらずアルジュナは食事をルームサーヴィスで用意させたらしく、ホテルの係が食事の支度をする様子に落ち着かず、カルナはひたすら後ろをうろうろした。
実を言えばアルバイトでラブホテルやら格安のビジネスホテルの清掃に入ることも多く、普段は裏方ばかりしている立場であるから余計に落ち着かない。
アルジュナは人を使い慣れているようで、ご苦労でしたと一言言ったきり、濡れた黒髪をタオルで拭きながらもうそちらは一顧だにしない。
アルジュナと向かい合って食事をするのは落ち着かなかった。部屋が広いとは言っても食事をするテーブルはたいして大きくもなく、距離が近いので緊張する。先程まで同じベッドで裸で抱き合って眠っていたというのにおかしなものだった。
「お前のナイフとフォークの使い方は見事だな」
自分の食事の所作がお世辞にも美しいとは言えないのを知っているから、カルナの感嘆は純粋な賛美というよりも、自嘲が混じっていたかもしれない。
「そうですか? お前は随分と美味しそうに食事をします」
「……そうか」
育ちの悪さを揶揄しないアルジュナの気遣いに頭を下げると、彼は困ったような顔をした。
あらかた食事を終えると、彼は席を立ってコーヒーを淹れてくれた。カルナは妙な居心地の悪さに尻を浮かせたり落ち着けたりし、結局落ち着いて食事をしろと言われるままに、残りのご飯を口に押し込んでいる間にアルジュナはコーヒーを淹れおえてしまった。
「どうぞ」
「すまん」
「いいえ」
アルジュナは静かにカルナを見、カルナはうろたえて少しコーヒーをこぼした。
「カルナ。食べ終わったら話があるのですが」
「……もう食べ終わった。ごちそうさまでした」
カルナは身構えて居住まいを正したのだが、アルジュナは微笑んだ。
「お粗末様でした、でいいんでしたっけ。カルナはきちんとした挨拶をするのですね」
「……そう教えられた」
「そうですか、よいご両親ですね」
アルジュナは何の気なく言ったのだろうから、カルナも何も言わず頷いただけだった。それに実際のところ、育った施設やその職員を褒められているのだと思えば素直に嬉しい。
「それで、その。話なのですが」
アルジュナは何故かためらうように言い淀み、カルナは無言でただ待った。
「……お前のスケジュールが調整可能ならばですが。このあとしばらく、私に付き合って、共に過ごしてはくれませんか。日本にいる間、この部屋で、一緒に暮らして欲しいのです。勿論、十分な手当は払います。お前さえ了承してくれるならば、昨日の誰かに話を通せばいいのでしょうか」
「……驚いた」
カルナは素直にそう言って、とりあえず手に持ったままだったコーヒーを一口含み、それから机に置いた。
「……昨晩のあのていたらくで、まだオレにサーヴィスを期待する気になるとは驚きだ。別段、オレは構わない。仕事はいくらでも調整はきく。今月あと三回は公演がある予定だったから、それさえ話をつけて貰えるのならオレの方は問題ない」
「……私と共に過ごすのは、嫌ではありませんか?」
アルジュナの問いに、カルナは目をぱちくりさせた。アルジュナのような男に望まれて、否という者がいようか。まるで無益な質問と思えた。
「断れるような立場ではない」
「……はい、そうですね」
アルジュナは何故か顔を曇らせ、きょとんとしているカルナの顔を覗き込んだ。
「……ですが、本当に嫌ではないのですか?」
「構わない。二言はない」
アルジュナは溜息をついて、カルナの髪をそっと指先で撫でた。
「判りました。カルナ、いくつか電話をしますから、寝室で待っていてもらってもかまいませんか?」
「……先にここを片付けてもいいか?」
「片付けは係の者にやらせます。あなたは休んでいて下さい」
アルジュナは困ったように言って立ち上がり、カルナの唇にそっと軽いキスをした。
「カルナ。私はおまえを困らせていますか?」
カルナは言葉に詰まり、ややあって首を振った。
「いや……オレこそお前を困らせているのではないのか?」
アルジュナは苦笑して、そっとカルナの身体を抱え上げるように立たせた。
「そうですね、困るというか、困惑しています。心底から愛しいと思う者を目の前にするのは、生まれて初めてですから。どうしてよいか、わからない。おまえのせいではありませんよ、カルナ」
「……愛しい? オレが? ……お前の言葉はよく分からない。アルジュナ、お前はオレのことなど何一つ知らない筈だ。それを何故……」
アルジュナは、これまでにも幾度か見せた悲しげな表情で、カルナの頬をそっと撫でた。
「……そうかもしれません。でも、私はお前を確かに愛しく思っています。……信じてくれとは言いません。ただ知って欲しい」
カルナは戸惑い、アルジュナの顔を見上げた。
「……そう……なのか? だが、オレは……」
「いいえ、カルナ。今はわからなくとも構いません。ただわたしはあなたが愛しい。……いえ、混乱させてすみません。今日、あなたの着るものも届けさせます。少し待っていて下さい」
「……承知した」
何一つわからなくとも、そう答えるしかなかった。アルジュナは静かに頷いて、カルナを寝室のベッドに座らせ、間仕切りの扉を閉めた。万事が高級なホテルの扉は防音もしっかりしており、廊下をはさんでいることもあって、間仕切りとはいえ、閉めてしまえば向こう側の音は聞こえない。
カルナは、つかの間耳を済ませて漏れ聞こえる音を聞き取ろうとした自分を恥じ、溜息をついて意識をそちらから逸らせた。
寝室は豪華すぎて落ち着かなかった。アルジュナがカルナを座らせたのは使っていない方の寝台だったので、きっちりとベッドメイクされた敷布はひたすらによそよそしかった。
カルナは首を振って、今朝目を覚ました寝台の方に移り、アルジュナの使っていた枕を抱きしめて息を吸い込んだ。男の残り香が肺に満ちる。
アルジュナは一体、何を思ってカルナにあんなことを言ったのだろうか。何一つ理解はできず、カルナはまた溜息をついた。
これからしばらく、カルナを買うとアルジュナは言った。商売繁盛、感謝すべきことなのだろうが、そう思えない自分がよくわからず、それが一番カルナを混乱させているのだった。
カルナをこの部屋に囲うことで、アルジュナに何かメリットがあるとは思えない。別段もったいをつける性質ではない。カルナに一夜のサーヴィスを求めるなら、その都度ここに呼び出せばいい。その方がどう考えても面倒はない。
カルナが、物珍しい以外の役には立たないことは、流石にアルジュナももう理解したであろうし、ベッドの相手以外でカルナに何かをさせたい訳でもあるまい。特別な技能も何もない。アルジュナの役に立てるような何ものもカルナは持っていない。
……だいいち、抱かれさえしなかった。アルジュナはただ温かい手のひらでカルナの身体をやさしく愛撫し、カルナが触れられるのを好んでいない、女性器には触れようともしなかった。カルナの身体に興奮しなかったという訳ではないらしく、下腹に押しつけられたアルジュナの性器は熱く漲っていたが、彼はその慰めをカルナに求めようとはしなかった。
朝、バスルームで彼が、一人自分を慰めていたのを知っている。申し訳ないが伝わってしまうものだ。カルナではアルジュナに一時の慰めですら与えられない。
己の身体を恥じることはすまい。顔も名も知らずとも己の両親に与えられた姿だ。カルナの身体を気遣って、何くれとなく世話を焼いてくれた、施設の職員にも申し訳が立たない。
だが、このときカルナはおそらく初めて、己の身体を酷く恥じた。あれほど丁寧に、愛情をすら錯覚させる優しい手で巧みに愛撫されても、濡れることのない自分の身体に。アルジュナに応えられないことが苦痛だった。
カルナは目を閉じ、脚の間に手を差し込んで、自分の女性器に触れてみた。
そこは乾いて、ぴったりと閉じていた。クリトリスの包皮の上から軽く指先で触れてみると、鋭い感覚に背筋が自動的にびくびくと震えたが、それだけだった。
性的な快楽のようなものは、相変わらずカルナには理解できず、そのうち諦めて指を離した。代わりに、たっぷりと唾液で濡らした人差し指を、膣の奥まで突っ込んでみる。無理に掻き分けた肉はぴりりとした痛みを伝えてきた。
カルナはしばらく、膣の中を自分の指でまさぐっていたが、そのうち唾液が乾いてきたので止めて、指を引き抜いた。やはり自分はかたわなのだろうと改めて思い、溜息をつく。
手を洗いに立とうとしたところで、アルジュナが扉を開けて入ってきた。
「すみません、思ったより時間が掛かってしまいました。……カルナ?」
沈んだ顔を見られたのだろうか、アルジュナは気遣わしげにカルナに声を掛け、カルナは顔をそむけて首を振った。
「……いや、何もない。いや……違うな、オレはどうかしているのかもしれない」
カルナは目を落とし、アルジュナは静かに、カルナの隣に腰を下ろした。
「お前はオレを望んでくれたが、オレはお前に返せるものが何もない。セックスの相手さえ満足にできないのでは――それにアルジュナ、お前は何だって持っているように見える。何故今更にオレを望む? 先程のお前の申し出通りにここにいても、自分の食い扶持に値するほどでさえ、お前の意に添えるとは思えない」
アルジュナはゆっくりと、うつむいたカルナの身体に手を伸ばし、強ばった背を抱き寄せた。
「私は、何だって持っているように見えますか」
「ああ、そう見える。……そのくせ、ひどく乾いているようにも」
「そうですね、お前の目はやはり正確だ。確かに、恵まれた人生を与えられました。お前の言うとおり、何だって持っているのかもしれません。――ただ、お前がいない」
アルジュナの腕には力がこもり、息が苦しいほど抱きしめられてカルナは小さく喘いだ。
「お前の言うとおりです。何だって、わたしは――でも、あなたがいませんでした。いつだって、私はお前を求める。そういうふうに決まっているんです。だからお前が思い悩むことなどありません。お前がここにいてくれるだけで私は満たされる。お前がいなければ乾く。何も難しいことなどありません。お前を愛しているんです――それだけですよ」
アルジュナはそう言い、カルナは困惑したように首を振った。
「そうだろうか、だがそれは、あまりにも――あまりにも、唐突に過ぎるだろう。お前はそんなにも急に、愛に落ちるのか? オレにはいくら何でも無茶なように聞こえるが」
「……急ではありません。もう何千年昔から、私はあなたを求め続けていることか。いえ、カルナ。これは私の事情です。お前が気に病むのなら、私に応えてくれるようになるまで、私にお前を愛させてください。無理はしなくていい。お前の気持ちに沿うよう私も努めます」
ゆっくりとアルジュナはカルナの身体を寝台に倒し、カルナはなんとなしにほっとして頷いた。
「ああ。お前に応えられたら嬉しい、と、オレも思う。成果が上がるかはわからないが、オレも努力しよう」
アルジュナは少し微笑んで、彼の髪を柔らかく梳いた。
「ええ、是非。カルナ」
アルジュナはそういったものの、すぐにセックスを始めようとはしなかった。彼は柔らかくカルナの身体を抱きしめたまま、ゆっくりと体温を分け合うように彼の背を撫でた。
そうされるのは心地よかった。カルナはゆるく力を抜いてアルジュナに身体を任せ、アルジュナはゆるゆるとカルナをいたわるように愛撫した。
「こうして触れるのは、不快ではないですか?」
「お前に触れられるのは好きだ。心地よい」
素直にカルナが答えるとアルジュナは微笑んだ。
「ならよかった」
よく手入れされているのだろう、アルジュナの指先はなめらかで、時折引っかかるのはカルナの肌が荒れているからだった。
カルナは、仲間によく、もっと真面目に身体の手入れをしろと怒られていたのを聞き流していたことを後悔した。手入れと言っても何をどうすればよいのか見当がつかなかったからなのだが、アルジュナに昨夜、愛撫されるように全身にクリームを塗り込めてもらったのは心地よかった。
くん、と自分の腕のにおいを嗅いだカルナに、アルジュナが微笑んだ。
「どうしましたか?」
「いや。……昨夜、お前が塗ってくれたクリームが良い匂いだと考えていた」
「気に入ったのなら、また塗ってあげましょう」
そう言って立とうとしたアルジュナの腕をカルナが引き留めた。
「いや、……今はいい。その、離れがたい、気がする」
アルジュナは少し驚いたように目を見開き、引き留められるままにカルナの身体を昨晩のように抱き込んだ。
「ええ、カルナ。あなたがそう感じてくれるのが私は嬉しい。……顔を見せて下さい」
アルジュナは肘をついて身体を起こし、カルナの顔をすぐ近くから覗き込んだ。目を伏せたり恥じらって見せたりするような技巧さえもなく、カルナはまっすぐにアルジュナを見返す。その視線を受け止めて、アルジュナはまた微笑んだ。
「ああ、カルナ、そう……相変わらず、とても美しい。きれいですよ、カルナ」
「……お前はやはりおかしいと思う。オレは……そんなに賞賛されるようなものではない」
アルジュナの言葉はあまりにも直裁に、熱烈すぎる。カルナは途方に暮れて首を振った。外国人は皆こうなのだろうか、文化が違うというやつか。
カルナはうろたえるあまりくだらないことを考えたが、結局何も結論など出るはずもなく溜息をついた。
「アルジュナ」
「はい」
「その……オレにも触らせてくれないか。お前がそうしてくれているのに、オレだけ何もせず寝転がっているのは、何というか気分がよくない」
アルジュナは躊躇ったようだが、結局は頷いた。
「……はい。お前が嫌でないなら」
「別に嫌なことはない」
カルナは生真面目に返して、アルジュナの胸元に触れた。
どくどくと、心臓の音を感じる。その鼓動は早く、胸を打ち破らんばかりに激しく打って、カルナはいささかばかり驚いて、彼が確かに、カルナの身体に触れて興奮を覚えているのだということをようやく納得した。
ガウンの中に手を差し入れて、うつくしくついた筋肉のかたちをぺたぺたと触る。子供のような触れ方に、アルジュナがふふっと笑った。
「楽しいですか? カルナ」
「楽しい。オレが、こんな風に触ると怒る者の方が多かったから、あまりこうした機会はなかった」
アルジュナは顔を曇らせて、カルナの顔を両手で包むようにした。
「ねえ、カルナ。これからは、どうか、私以外とこうして欲しくない、と望んだらどうしますか。……いえ、過ぎた願いだとは、理解していますが……」
アルジュナは口に出したことを後悔したようだったが、カルナはこともなげに頷いた。
「了解した。お前が望むのならば是非もない」
アルジュナは一瞬目を見開いてから、ほっと息を吐き出した。
「……はい。ありがとうございます。カルナ。楽にして」
そう言って彼はカルナの身体をシーツに横たえ、喉元にキスを落とした。それから丁寧に、カルナの身体に唇を触れていった。胸の中心を柔らかく唇と舌でなぞり、臍のあたりまで羽のようにキスを振らせていく。
ちゅっと乳首にキスされて、カルナはくすぐったがって笑った。アルジュナも笑って、相変わらずぺたぺたと彼の褐色の肌に触れているカルナの指先を軽く歯でくわえてみせた。
「嫌ではないですか?」
「嫌ではないな。温かい。どちらかといえば好ましいと思う」
素直に答えるカルナに、アルジュナはまた笑った。
「ならよかった。嫌なことがあればすぐに言って下さいね。口にしてもらえなければわからない」
「了解した。だが、こんなことがセックスに必要だろうか?」
「なにも、セックスするだけがお前を愛する方法ではないし、むやみやたらに性器に触れるのだけがセックスする方法でもありませんよ。楽にして、カルナ。大丈夫ですから」
「……了解した。お前はどうも、オレなどよりずっと、こういうことに詳しいのだな」
「あなたが疎すぎるだけでは? でも嬉しいです。あなたに、既に愛しいひとがいて、そのひとと幸せに暮らしていたら、私は……すみません、最低なことを言っていますね」
アルジュナはしょんぼりした顔をしてカルナを見下ろしたので、カルナの方がかえってうろたえてしまった。
「あの、そのう……恋人はいない、のでいいのですよね。カルナ……」
カルナは呆気にとられて頷いた。
「あ、ああ。……いや、いない。そもそも、同じ相手と三度以上セックスしたことがない」
アルジュナがぎょっとしたような顔をしたので、カルナはまた自分が余計なことを言ったのを悟って思わず目を閉じた。
「……そうですか」
アルジュナの険しい表情に、カルナは瞬間、殴られるか、少なくとも冷たく突き放されることを覚悟したのだが、アルジュナはそうですかと言ったきり、それ以上腹を立てた様子もなく、カルナの身体を改めて抱き寄せ、柔らかく背を撫でた。
「カルナ。ああ、怯えないで下さい。約束したでしょう、誓ってお前にひどいことはしませんよ。何度でも言います。私はお前を愛しています。ただ、どうしても悔しいんです、お前のようなひとが何故……いいえ、その御陰で私がいま、おまえを腕に抱く僥倖を得ているのではあるにしても」
そう言うアルジュナは本当に心から悔しそうな憤りを表情に載せており、カルナは困惑して目を瞬かせた。
「アルジュナよ、こんなことを言うのは申し訳ないようだが、お前はおそらく誰かとオレを間違えているのではないのか? お前はさっきからオレのことをよく知っているかのように話すが、オレにはその記憶はないし、――お前が言う程に、立派な人間であるとも思われないのだが」
アルジュナは静かにカルナを見返した。
「いいえ、間違えてなどいません。私がお前を誰かと、いいえ、あり得ません。……でも、すみません。お前を怯えさせたい訳ではなかった」
アルジュナはもう一度カルナの唇にキスをして、彼の頭をそっと撫でた。カルナはその心地よさに目を細め、なぜアルジュナに触れられるのは、嫌悪感も抵抗も湧かないのだろうと考えていた。
「……アルジュナ」
「はい」
「……すまん、眠い……」
「はい。眠いなら、眠ってしまって下さい、カルナ。昨晩は随分遅かったし、お前には無理もさせました。心地よければ眠くなるのは当然です。どうか、眠って。カルナ」
アルジュナは柔らかくささやき、カルナは首を振って起きていようと努めたものの、ゆっくりと暖かな腕の中で愛撫され、羽のようにキスを落とされるうちに、いつのまにかうとうとと眠り込んでしまっていた。
アルジュナの手のひらが優しく、幾度もカルナの腰骨をなぞり、背を撫でるのを、心地よいと感じていた。
目を覚ますと、アルジュナが少し上からカルナの顔を覗き込むように眺めていた。
「……すまん、結局眠ってしまった」
「ええ、よかった。私も少し眠っていました。お互い、夜遅かったですから」
カルナは頷いた。アルジュナの体温がぽかぽかとあたたかく、眠っていたのは嘘ではないようだった。アルジュナは目を細めて笑った。
「何がおかしい」
「いいえ、あなたが、カルナが、私の腕の中で眠るなんて。夢のようだと思っていました」
カルナは困惑して目を瞬かせた。アルジュナの言うことは実際よくわからなかった。だが、彼の笑顔は悪くないと思えた。
「アルジュナ」
「はい」
「オレからも触っていいのだろう?」
「ええ、それは……はい」
何故かアルジュナは渋るようだったがカルナは構わず、彼の胸に触れて、アルジュナが眠り込む前にしていたようにあちこちに軽いキスをした。
「……カルナ」
アルジュナが眉をひそめるのを見上げ、不快の意図ではないことを確かめる。それから思い切って頭を下げ、熱を持って勃起している性器を咥えた。
「……っ、カルナ!」
「させてくれ」
一旦奥まで飲み込んだアルジュナの性器を引きずり出して答える。アルジュナは困ったような顔をしていたが、カルナは構わずまた奥まで咥えた。
下手くそとしか評された事が無いが、せめて誠心誠意心を込めて奉仕する。喉の奥まで飲み込んで嘔吐くと、アルジュナが焦ったように腰を引いてしまうから、仕方なく口腔だけでどうにか愛撫する。時折歯を当てそうになって焦るが、そのうちアルジュナが低く呻いて、舐めている先端からじわりと塩辛い体液がにじんできたので、ほっとして精いっぱい舐め続ける。
アルジュナは小さくカルナ、と囁いて、その顎に手を掛けてずるりとペニスを抜いた。
「んぅ……もう、すこし」
「いいえ。……手を貸してくれますか、カルナ」
取られるままに差し出した手にずっしりと熱く重い性器を握らされ、手を重ねて動かされる。カルナは無心に愛撫を続け、アルジュナはやがて深い満足げな溜息をついて、カルナの手にどろりとした精液を吐き出した。
カルナが感心してしげしげとその白い粘液を目の前にかざして観察していると、頬を染めたアルジュナにひったくるように手を取られ、乱暴にタオルで拭われてしまった。
「まったくもう……気持ちよかったですよ、ありがとう、カルナ」
そう言われると急に気恥ずかしくなって、カルナも少し頬を染めた。
「オレでも、少しは用を足せただろうか」
アルジュナはそっとカルナの頬に口づけ、顔を背けた彼の顎を掴んで、さっきまで自分のペニスを咥えていたことなど気にもしないように、優しく唇にキスをした。
「カルナ。ねえ、私はいま、この世で一番の幸せものです。あなたも、ねえどうか私といて幸せに感じて欲しい。それが私の望みです。道のりは遠いとは思いますが、諦めはしませんよ」
カルナは眩しげにアルジュナを見上げ、ぼんやりと頷いた。
「……ああ。オレは……決していま不幸でも不快でもないのだが、きっとそういうことではないのだろうな」
アルジュナは微笑み、カルナの身体をぎゅうと抱きしめた。
アルジュナが密かに怖れていたよりも実際は遙かに、日々はなんとなく安穏に過ぎた。
カルナを強引に連れ帰ってしまったのは、関係者の間にありとあらゆる憶測を生んだらしく――さもあろう――、しばらくの間彼を借りたいと申し出た次の日の電話に、非常に訳知り顔のにやついた声で返されたのはお互いの不幸だった。
アルジュナは不快さのあまり電話をたたき切ろうかと思ったがかろうじて我慢した。不機嫌を押し隠すための取り繕った完璧な礼儀正しいにこやかさでアルジュナはビジネスライクに話を進め、劇団(ということになっているらしかった)のスポンサーに話をつけて、それなりの額の寄付と引き換えに二度とカルナを舞台に立たせないことを確約させた頃には神経がいい加減擦り切れていた。
アルジュナが勝手に話を進めた事実を知れば、カルナは激怒するだろうと思うと気が重かった。いや、激怒するならばいい。カルナとの諍いなどカルデアではしょっちゅうだったし、シュミレーションルームで不毛な戦いを繰り広げたことも覚えている。
だが、カルナが昨夜のように、困ったような、悲しげな目をして、アルジュナの意に沿おうと自分を押し殺すような真似を見せたら、一体自分はどうすればよいのか。
どんな言い訳をしようと、自分が札束で顔をひっぱたくような真似をして、カルナの生き方に横槍を入れたことは否定しようのない事実だった。たとえどれだけアルジュナにとって受け入れ難かろうと、これはカルナの選んだ人生であり、おそらく生き難く苦しんだであろう彼が、少なくとも今、束の間であれ居場所と安寧を見いだしている場所なのだ。
カルナにとって蔑むべき生業などはなく、昨晩少し微笑むようにしながら一座の仲間の話をする彼は、確かに己を不幸などと考えてはいないだろう。そしてアルジュナは彼の人生に、昨晩突如として現れた闖入者に過ぎない。
そのアルジュナが、カルナがいま大切にしているものを何もかも踏みにじるような真似をして、彼を自分の手元に置きたいと浅ましくも願っていることなど、いったいどうやって告げればよいだろう?
アルジュナは電話を終えても、しばらくの間カルナの前に出る勇気が出ず、電話用の椅子に座り込んだまま脱力していた。
カルナ。自分が恐ろしい一歩を踏み出してしまったことは自覚していた。
憎まれても、恨まれてもいい。だが、カルナがあのまま、安っぽい舞台で奇形の性器を晒し、天井をぼんやりと見上げながら人工的な液体で感じることのない女陰を濡らし、男に犯されて見世物になっているのなど――到底受け入れられる筈がないではないか。あの誇り高く美しい男が、彼の美しさも気高さも、理解することのない男達に囲まれて、物珍しさだけを嘲笑と共に無惨に消費されているなどと、決して、何があろうと受け入れられる筈がない。
できるならアルジュナは、あの美しい姿を目にし、カルナに触れた男達をすべて、かつて己の持っていた炎と雷で焼き尽くしてやりたかった。あれはお前達のおいそれと目にできるようなものではない、畏れ多くも太陽神の御子が、ただかりそめにこの地上に生を受け、その威光にてみそなわす慈悲を、おまえたちなどには――
だがカルナは決してアルジュナの、その怒りを認めることはないだろう。彼は人間を愛しているのだ。この理不尽な世界をも。カルナは静かに、そのすべてを受け入れている。それがアルジュナにはひたすら悲しく、愛しく、憤ろしい。
アルジュナは深く息を吐き、意を決して立ち上がった。カルナを待たせたまま、あまり長い間呆然としている訳にもいかない。
カルナの、あの視線の前にアルジュナの取り繕った平静さなど、果たして意味があるのかどうかもわからなかったが、とりあえずそれでもどうにか穏やかな表情を作ってドアを開けると、カルナは何故か悲しげに、途方に暮れた顔をしていた。
その彼を抱き寄せ、どうしましたかと囁いて、――あれほど汚すまいと誓ったカルナの手に、浅ましく扱かれて欲を吐き出したのを今更繕えると思えない。
実際カルナはそれからも、ことあるごとにアルジュナにセックスをせがんだ。彼自身は欲を覚えることもなく、相変わらず淡々とした様子で、愛撫しても心地よさげに目を細めるばかりである。
彼が単純に現状の雇い主ということになっているアルジュナに負い目を感じているだけであるのは理解しているというのに、いざカルナが美しい顔を間近に寄せて、アルジュナ、しなくても良いのか、オレは構わない、いや、お前にして欲しいと囁かれると、その不器用な誘惑に、到底あらがえないのだった。
カルナは到底巧いとは言えない口淫と手淫でアルジュナを悦ばせようと懸命に努め、その、生業に似合わぬ不器用さもまたアルジュナを酷く煽るのだった。
共に日を過ごすようになって三日目には、到頭身体をつなげてしまった。
やり場のない罪悪感と、アルジュナの腕の中で、ほとんど裸同然の格好で無邪気にすうすうと眠っているカルナへの焼け付くような欲望でほとんど息もできず、到底眠れずに夜を過ごした明け方、ぼんやりと眠り込んだ隙にカルナがいつの間にか、アルジュナの身体に馬乗りになっていたのだった。
「な……カルナ!? お前は何を、こら、やめなさい……!」
「勝手をしてすまないな、アルジュナ。だが、オレはどうしても……ん…っ、は、ぁ……」
カルナは苦しげにうめきながら濡れてもいない性器にアルジュナを無理に押し込み、アルジュナはカルナの無謀さに青くなりながら、それでも既に半ば以上包まれた温かい肉に、はねのけることもできず表情を強ばらせた。
「う……っ、ぅ、どう、にか」
「お前は……なんてことを」
「は、あ、…おまえ、は、嫌がる、だろうが、オレは」
「もう、止めなさい……怪我をしますよ!」
「あ……だいじょ、ぶ、だ、すこし、くらいの、無理は」
アルジュナが肩を押し戻そうとするのに抗うように、カルナは狭いところに無理にくわえこんだアルジュナの性器をきゅうと締め付けてみせ、アルジュナは小さく呻いて思わずカルナの肩を強く掴んだ。
カルナの顔は無表情ではあるが蒼白で、あからさまに痛みに耐えており、性交で苦痛しか感じていないのは明白だった。それにもかかわらず、アルジュナを食む肉は柔らかくて温かく、カルナの体温は粘膜を通じてそのままに伝わってきて、アルジュナにはどうしても、力ずくでカルナを引き剥がして性交を終わらせることができなかった。
カルナは苦痛の声をかみ殺しながらアルジュナの上で腰を振り始め、その、酷く派手で大げさな癖に、カルナ自身には何らの快感ももたらさない動きは、彼がいかがわしいショー・ビジネスの世界で身につけたであろうものだった。
こんな、ただ愛しい者を痛めつけるだけのようなセックスが、下半身が溶けそうに気持ちがよいということに、アルジュナは絶望して首を振った。
「カルナ、カルナ、……ぅ、……っく、止めなさい、……ぅ、あ、カルナ!……いいかげんにしなさい……! まて、わたしに、させて」
制止してもこの強情な男が従う筈がないとようやく気付いたアルジュナが要求を口にすると、やっとカルナは動きを止めた。
「……っ、そんなんじゃ、イケません、……は、カルナ、わたしに、させてください」
「……ぅ、不調法で、すまないな」
そういう問題ではない、とアルジュナは余程言いたかったが、それでは元の木阿弥であるので黙って頷いた。乱暴に揺さぶろうとするカルナを制して、彼の腰を掴んで体勢を入れ替える。
「……は……カルナ、あなたというひとは……ほんとうに……」
寝台に押し倒したカルナは少ししょげたような顔をしており、アルジュナは不覚にもそれを可愛いと思ってしまって、狭い膣の中でペニスが膨れるのを感じたらしいカルナが顔を歪めた。
「……息を吐いて。濡らしもせずに、あなたは……力を抜いて下さい」
カルナの白い脚を抱えて大きく広げさせ、一旦退いて浅いところで抜き差しする。
既にここまで来てしまっては、最早どうにもならなかった。アルジュナとて退くに引けない。どくどくと脈打つ心臓の音が脳みそを揺らすような気がして、カルナの身体を押し広げて奥の奥まで犯したい、深く子宮まで――存在するのかわからないが――膨れきった男根で貫いて、その白い胎に己の子種を注ぎたい、種をつけて身も世もなく啼かせたいと、本能と欲望が激しく叫ぶのを押しとどめるのがやっとだった。
「……っ、苦しくは、ありませんか、カルナ。大丈夫ですか」
「大丈夫だ。オレは頑丈だ。それに、少しはましになってきた」
カルナの言うとおり、幾度も抜き差しするうちに乾いていた膣はわずかに濡れて、薄かった陰唇も少しは膨れてきているようだった。
それはカルナが性感を得ているのではなく、単なる生理的な反応だと判ってはいたが、それでも彼の苦痛が少しはやわらぐだろうと思えばありがたかった。
せめて早く終わらせようとアルジュナは努め、なるべく浅いところで亀頭のあたりを擦りつけては射精を急いだ。カルナは目を閉じて何か考え込むように、不可解な穏やかさでアルジュナを受け止め、その表情を見るのがあまりにもいたたまれずに、アルジュナは思わず歯を食いしばった。
それでも、自分が今まさに温かい性器に身体を沈めている男の――兄の、超然とした美しい顔から目を逸らすことがどうしてもできずにアルジュナは呻いた。
「ああ、カルナ」
「アルジュナ」
許可を得る余裕など最早どこにもなく、アルジュナはカルナの唇を奪うと、深く舌を差し込んで狭い口腔を舐め回し、薄い舌を絡めて吸った。ぴちゃぴちゃと唾液の絡む音にカルナが喘ぎ、射精の瞬間、アルジュナは腰を引こうとしたものの、カルナが長い足を強引に腰に巻き付けて引かせなかった。
まさかそこまでされるとは思わず、アルジュナは呆然としたまま、カルナの――倒錯に目眩がする――半端に乾いた膣の中に射精してしまった。喘ぎ、思わずカルナの細い身体にしがみつきながら、思い切りカルナの胎内にぶちまけた後で、はっと気付いて青ざめる。
「カ、カルナ、お前は、これは……」
「……子宮らしき器官はあるが卵巣はない。月経もないから妊娠することはない。杞憂だ」
「そう、か」
言い様もなくほっとした。カルナにこれ以上、苦痛を味わわせることなどできるはずがない。だがそう思う脳裏の片隅で、浅ましく愚かにも落胆している己に気がついて、アルジュナは酷く自己嫌悪に苛まれた。
「カルナ、大丈夫なのですか。……すみません、見せてください」
「ああ……見よいものでもないだろう、……ん、」
「血が……お願いです、カルナ、もうこんな無茶はしないでください。セックスしたいとは言いましたけど、こんなのは……こんなのはセックスとは言えないでしょう」
「そう、か……そうだな、そうだ、互いの合意がなければならない、のだな。悪かった。オレはどこまでも、お前を失望させることしかできないようだ」
「そんなことはありません。……いいえ、カルナ。お願いだから悲しいことを言わないで下さい。こんなことしなくたって、私はお前と居るだけで満たされています。それだけで十分なんです」
そう言いながらアルジュナは、カルナはその言葉の欺瞞を見抜いているからこそこんな挙に出たのだろうと十分に理解していた。
カルナを抱きたい。彼を抱いてアルジュナの、アルジュナだけのものにしたい。だがこんなセックスとも呼べないような肉の交わりで、カルナが己のものになってくれるなど到底思えなかった。
アルジュナは溜息をついて立ち上がり、カルナを抱き上げてバスルームに連れて行っては、バスタブに寝かせて温いシャワーで全身を洗ってやった。カルナは流石に落ち込んだのか、大人しくされるがままになって何も言わなかった。
「……アルジュナ。……怒っているか?」
カルナの体中からボディージェルを洗い流して濡れた髪をざっと掻き上げてやったところで、しょんぼりとした声でカルナがようやく口を利き、アルジュナは自分も黙りこくっていた癖に、思わずほっとしてカルナの額に頬を寄せた。
「いいえ。怒ってはいませんよ。ただ、困っているんです。……どうしたら、お前に私の気持ちが伝えられるのかと」
カルナはしゅんとしたように、バスタブの中で膝を抱えた。
「よく、言われる。オレは人の気持ちに無頓着すぎると。だが」
カルナは小さな子供のように、途方に暮れた表情でアルジュナを見上げた。
「……だが、お前に抱いて欲しかった。このまま、お前に何も返せないまま、二度と会えなくなるのは嫌だ」
「カルナ」
アルジュナは思わず深く心を打たれて、カルナの身体をバスタブから抱き上げた。
「カルナ、ああ、カルナ、莫迦ですねえ、あなた、今更……私があなたを離すと思っているんですか? カルナ、ねえ私が、何があったってあなたを手放す訳がないじゃないですか、あなたがどれだけ嫌だと言ったって、私は決してあなたを自由になんかして差し上げませんよ」
カルナは聞いているのかいないのか、アルジュナの物騒な独白を聞き流して、彼の胸の中で溜息をついた。
「……そうか。それなら、いい。……悪かった。アルジュナ」
カルナはようやく折れたのか素直に謝り、アルジュナは溜息をついて、そっとカルナにキスをした。
結局腹など立てられる訳がない。同じベッドで枕を共にしながら、アルジュナがこれほどカルナを抱きたいと、切実に、灼けるように求めているのを、恬淡としているだけで人一倍聡い彼が気付かずにいる筈もないのだ。そうしてカルナは彼なりに、よかれと思った行為を施したにすぎない。
カルナを抱いてベッドに戻ると、彼は素直にされるがままに横たわり、アルジュナにむき出しの両腕を差し伸べた。その指先にキスをして、許しを乞う思いでその隣に横たわった。
「アルジュナ。すまなかった」
カルナはもう一度謝罪し、アルジュナは首を振った。
「いいえ。……私こそ、乱暴にしませんでしたか……まだ、痛みますか」
「いや。心配することはない。オレは頑丈だし、第一慣れている。お前のものは、その、やたらでかいから苦労した位で、お前はとても丁寧だった。その……アルジュナ?」
さすがに赤くなってカルナの顔がまともに見られなくなったアルジュナは、照れ隠しのように、ああもう、あなたというひとは!と叫んだ。
「カルナ。とにかくその、勝手にするのは止めて下さい。……私では、お前の気持ちを理解しきれていないのかもしれませんが、それでも、理由なく無碍にするようなことはしませんから……」
「承知した」
カルナは素直に頷き、アルジュナは、罪悪感とカルナへの思慕をどう折り合いをつけてよいかわからないまま、途方に暮れて彼のぬくもりを抱きしめていた。
アルジュナは限度というものを知らない。というよりも、カルナが最初に感じた通り、生きている世界が違いすぎて、常識だのといった感性があまりにもカルナと乖離しているのかもしれなかった。
カルナに服を用意してくれると言った通り、アルジュナは何やらホテルの部屋に人を呼びつけて大量の衣類を届けさせた。
呆気にとられて、これは一体何だと問えば、あなたに似合う服がわからなかったのでとりあえず見繕ったものを届けさせましたと平然と答え、いかにも金持ちらしい無造作な傲慢さでその服を端からカルナの身体に当てては二つの山に分けて放り投げ、途中でもう十分ですねと言ったきり、片方の山と残りの服は無慈悲に持って帰らせた。
着るものなど何でもいいカルナの性格は何故か把握しているらしく、試着をしろだの自分で選べだの言われなかったのは幸いだったが、それにしても、無情にも選ばれなかった衣類を綺麗に畳んで持ち帰っているデパートの店員(なのだと後で聞いた)が気の毒だったし、よく考えたら残された服の山はすべてカルナに与えられる訳で、一瞬気が遠くなった。
多分カルナがこれまでの生涯で所持したことのある服の量より、今ホテルの床にうずたかく積まれている衣料品の方が量が多いかもしれない。
アルジュナは、靴だけはちゃんと履いて選べと言って、何やらいろいろと履かせては歩かせ、どれでもいいと言えばどんな剣幕で怒られるか判らないので、カルナは大人しく少しきついだの親指が余るだのと感想を述べた。
それで一足選ばれてほっとしたのもつかの間、では同じ木型でと言った訳の分からないアルジュナの言葉に、革靴からスニーカーからブーツから瞬く間に並べられ、カルナは憮然としてもうオレはこのスリッパでいいと言ったのだが、アルジュナには一顧だにされなかった。
カルナが呆然としている間に、アルジュナは他にも鞄やら時計やら、カルナが生まれてこのかた一度も必要だと思ったことがないような物品をいくつも取り出させ、カルナは流石にもういい加減にしろと怒鳴りたくなったものの、自分の立場を思い出して耐えた。
衣服と持ち物の山を持参してきた男たちが荷物をまとめて帰った後、アルジュナはようやくカルナが不機嫌なことに気付いたようで、困ったようにカルナの頭を抱き寄せて、そっとその額にキスをした。
「カルナ、すみません。あなたがこういうことは好まないのは知ってはいたのですが」
「……いくらなんでも、不要に過ぎる。そんなに、山のように衣類を積まれたところでオレは一人しかいない。どう考えても着られる筈がないだろう」
「ですが、カルナ、私はあなたを着飾らせてみたい。あなたに相応しいものを、とは言いません。せめて少しは似合うものを着て、私の隣を歩いて欲しい、というのは、雇い主の特権で許されませんか?」
カルナは顔をしかめた。
「着せ替え人形ごっこをするには、オレは少々薹が立ちすぎているだろう」
「そんなことありませんよ……というか、カルナ、いくつなんです?」
「なんだ、知らなかったのか。……三十五だ。思ったより年を食っていたなら、今からキャンセルしても構わんぞ」
「いいえ、そんなことするはずないでしょう。……その、私より年上だったから驚いただけです」
「……お前は何歳なのだ?」
「……二十六です」
「……成る程若い」
なるほど、まさか一回り近く違うとは思わなかった。アルジュナはカルナの不機嫌から気がそれたのを敏感に察して、服の山はそのままにして彼をソファに連れて行き、またココアを持ってこさせた。
「ねえ、カルナ、今日はまだこれから仕事をしなくてはいけませんが、明日は一緒に街へ出ませんか」
「街へ?」
「はい。この東京であちこち観光案内はしてもらいましたが、ごく普通の、町中の暮らしも見てみたい。カルナ、あなたはここで育ったんですか?」
「ああ。オレの出身は××区の児童養護施設だ。町中の普通の暮らしとやらはよく判らんが、学校と施設のあった近辺なら地理くらいはわかる。あとは職場の近くだろうか、正直、必要な場所にしか出向かんから、長く住んだ場所だが、お前が見て楽しいような場所などほぼ知らん。観光に値するような場所は、おそらくお前の方が詳しいのではないか」
カルナは単純に、正直な意見を述べたのだが、アルジュナは何故か目を伏せて首を振った。
「いえ……私は、カルナの育った街を見てみたいです。どんなところなのか、あなたが何を見て、どんな空気を吸って育ってきたのか知りたい。駄目でしょうか」
「まあ、構わんが。お前はおかしなことに興味を持つのだな」
「あなたのことなら何だって、私は知りたいです。カルナ」
アルジュナは優しい声で囁き、ココアの甘さも手伝って、カルナはぼんやりと頷いたのだった。
後になってよく考えてみれば、アルジュナはよくぞまあ腹を立ててカルナを放り出さなかったものだ。
劇団のメンバーのパトロンは、皆大抵ひいきの相手を自分好みに着飾らせ、連れ歩いたり、公演の後で隣に侍らせて酒を飲んだりするのを好んだものだ。
カルナ自身にはそういった意識が薄く、そのせいでよく客を怒らせた。そういえば以前にも、女物の服をプレゼントされて、意味が分からなかったので断ったら激昂されたことがあった。
つい忘れていたが、アルジュナは当然、カルナが着るものがないから服を届けさせた訳ではなく、そういった意味でパトロンらしく振る舞ったのであろうから、カルナがにべにもなく断ったりするのは礼儀知らずだったのだ。
カルナは溜息をついて、どうも巧くいかぬとこめかみを叩いた。
だいたいカルナの知る限り、こんな年齢になるまでセックス・ショーのパフォーマーなぞしているのは、余程の芸達者か阿呆かのどちらかである。カルナは無論芸などありもしないから、後者ということだろう。
大抵の踊り子は、タイミングのいいところで適当なパトロンを捕まえて、小さなバーを構えたり、愛人稼業におさまったり、結婚したり、まあ様々である。男の場合はもう少しばかりハードルが高いが、大体が小金のある年増の女性を捕まえたり、男の金持ちに雇われたりして、一人また一人と抜けていく。
もう随分長いこと一座にいるが、最初に参加したときと同じメンバーはもう栄子さんだけで、後のメンバーは入ったり、抜けたり、一度抜けてまた入ってきたりもするが、大抵は皆一座を去って行くのだった。
カルナは大概この調子で、言わなくてもいいことを言ってしまい、言いたいことは大体が伝わらない。パトロンがつくどころか、同じ相手と二回以上寝ることすらまれで、大抵は次の日に連絡さえ取れなくなって終わる。
それが自分のせいだというのは重々承知しているから恨みごとなど言う気も無いが、それを思えばアルジュナはよくぞまあ、カルナに我慢してくれていると思えた。
次の日は本当に、アルジュナはカルナに案内させて街に出かけた。
カルナにもさすがに、いくらアルジュナが口でそう言ったからと、養護施設なぞに見物に行かせてはまずいのくらい判る。結局、随分迷った挙げ句、カルナの育った街で唯一商店街なぞある駅前にアルジュナを連れていき、何の面白みもないであろう、どこにでもある住宅地の駅前を二人してそぞろ歩く事になったが、意外にもアルジュナは終始上機嫌で楽しそうだった。
ホテルを出る前に、アルジュナはやはり上機嫌でカルナに昨日持ってこさせた服を着せた。
彼が選んだのは、細身のジーンズと、思わずぎょっとするほど柔らかい、灰色と茶色の中間のような色をしたセーター、上着は黒く染めた皮革で一見薄手だが、内側には異様に細い毛の動物の毛皮が裏打ちしてあってやたらに温かいジャケットという組み合わせで、きっと上等なのであろうし値段は考えたくもないが、一応カジュアルではあるし目立つような組み合わせでもないのでほっとした。
アルジュナは最後に、つや消しの濃い金色をした少し変わったデザインの腕時計をカルナの腕にはめ、カルナは腕時計などこれまでしたこともなかったが、その時計の見た目は気に入ってしげしげと眺めた。
「気に入りましたか?」
「ああ。腕時計など身につけたこともなかったが、お前に選んでもらったと思うと、こうして見ているのも嬉しい。ありがとう」
昨晩反省したカルナが礼を言うと、アルジュナは嬉しそうに頬を染め、カルナは素直に、この装飾品を受け取ってよかったと思った。
世辞など言えぬ性質のカルナは本当にその時計が気に入ったし、高価すぎる装飾品は自分には相応しくないと思うものの、少し重みのあるその時計は、しっくりとカルナの細く白い手首に嵌まって、やや先鋭的なデザインも違和感がなかった。
「あなたに似合うと思ったんです。その、気に入ってくれてよかった」
アルジュナはそう言ってはにかんだようにほほ笑み、カルナも思わず少し頬を染めた。
アルジュナはあれやこれやと衣服をとっかえひっかえしてはカルナのコーディネートを選んだ癖に、自分はクローゼットから単に手に触れるものをつかみ出したとしか思えない無造作な様子でさっさと衣服を整えた。
それでも、白っぽいコートを着たアルジュナはとても洗練されて、スマートに見え、カルナは感心して彼を眺めた。
「成る程、付け焼き刃のオレと違って、とても洗練されて見える。こういうのを着こなすというのだろうな。流石だ、アルジュナ」
「……あなたも、とてもよく似合っていますよ。折角選んだのですから、どうかそんなことを言わないでください、カルナ」
反省の意味がなかったとカルナも若干しゅんとしたが、アルジュナがすぐに微笑んで、でも褒めていただいてありがとうございます、と言ったので、気まずい空気はうやむやになった。
それから二人で出かけてきたのだが、垢抜けない駅前の商店街に、二人の姿は明らかに浮いていた。とはいえ、悪目立ちするという程でもなく、通り過ぎる人々の視線をちらちらと感じつつも、二人は何事もなく街を散策した。
ドラッグストアで面白そうにずらりと並んだドリンク剤の棚を眺めているアルジュナのコートを引っ張り、奇跡的にも未だに営業していた、カルナの住んでいた頃から存続する古本屋で日本のコミックスをいくつか解説させられて辟易し、数冊適当な本を購入して逃げ出した後は、二人してたこ焼きを買い食いしたり、駅前のベンチに座って、通り過ぎる人々を観察したりした。
意外なことに、その時間はとても楽しかった。カルナにとっても楽しかったし、アルジュナも、少なくとも退屈はしていないようで、カルナに笑いかけてくる笑顔は心底からのものだった。
「カルナ、少しお腹がすきましたね。この街で何か食べていきませんか」
「先刻たこ焼きを食ったばかりのように思うが。……お前の口に合うような店があるとも思えないが……」
「私は観光に来ているんですから、ホテルと同じようなものを食べたって仕方がないでしょう。あなたが好きなレストランで食べてみたいんですよ」
「とはいっても、オレは外食など……初めて行く店でもいいのか?」
「はい、何も構いませんよ」
明らかに、カルナも浮かれていたのだろう。カルナが迷った挙げ句、アルジュナを連れて行ったのは、駅前から少し離れたところにあるステーキハウスだった。
「これはまた、年季の入った店ですね」
「オレが子供のころから営業している。入店したことはないのだが、その、幼い頃は、一度入ってみたいと思っていた……のを、先刻思い出した」
アルジュナは、ふふ、と笑った。
「あなたにも、そんな他愛ない望みとかあったんですね」
「それはそうだろう、オレとて人の子だ。子供の頃は施設の食事に、むろん満足してはいたが、学校から帰る途中で、肉の焼ける匂いが漂ってきてな。腹を減らした時間に、なかなかの試練だった」
アルジュナは屈託なげに笑って、カランカランと鳴るベルのついたステーキハウスの扉を押し開け、カルナを中に通した。
「そうですか、では往年の恨みを果たす時ですね」
まだ夕食には若干早い時間だったので、店には誰も客がいなかった。
二人は窓際の奥の席に通され、カルナがメニューを見て唸っている間に、アルジュナがさっさと二人分のコースを注文してしまい、赤ワインのボトルまで頼んでいたので、カルナも諦めてメニューを置いた。
「よかったですよね、カルナ。別に希望の料理もないのでしょう?」
「まあ、そうだが」
金額を見てためらっていたのにすぎないカルナはしぶしぶ頷いた。こんな住宅街にある古ぼけたステーキハウスにしては、カルナが考えていたのよりも少しく料金が高かったのである。
アルジュナは少し笑って、運ばれてきたワインをカルナに押しやった。
「乾杯しましょう、カルナ」
「乾杯か。何に対してだ?」
「そうですね、私は、あなたに出会えたことを感謝したいです。それではいけませんか」
「……まあ、別に構わないが」
アルジュナは、カルナがはっと胸を衝かれたほど魅力的に微笑んで、優雅な所作で安物のワイングラスのステムを掴んだ。
「では、乾杯。あなたへの愛に」
「か、乾杯」
思わず頬を染める。気障なことを言ったアルジュナはごく平然としていた。
相変わらず、アルジュナの言葉は心臓に悪い。ごまかすようにワインを口に運び、そっと目を逸らすと、丁度薄く曇った窓ガラスの向こうで日が沈むところだった。
子供の頃にカルナの見慣れた、懐かしい光景が、その窓ガラスの向こうに広がっている。背の低い4階建てのビル、おんぼろの住宅、所々は記憶にある建物は取り壊されて、真新しい建て売り住宅に置き換えられている。
夕陽はオレンジ色の光を斜めに投げかけ、建物は皆斜めの長い影を引きずっていた。丁度下校時刻の中学生たちが、制服のスカートの裾を揺らし、部活動のバッグを振り回しながら、元気よく目の前の道を通って帰っていく。
昔カルナはあの群れの中に入っていけず、一人離れた所から、眩しく彼らを眺めていた。先を行く彼らから距離を取るように、静かに歩く通学路に、このステーキハウスの窓が目に入って、時折中に見える人影に、どんな人がこの古い――カルナの子供の頃から、既に古びた印象だった――レストランで食事をするのだろうと考えたものだ。
「カルナ、どうしましたか?」
窓の外を見て考え込んでいるカルナに、アルジュナが心配そうな声を掛け、カルナはゆるく首を振った。
「いや。……お前は、不思議な男だな。一体何故、オレなどに情を掛けたのだ? お前の意に添えたとも、到底思えないのだが」
アルジュナは困ったように笑い、前菜のスモークサーモンをチラリと見て目を輝かせたカルナへ、自分の分の皿を押しやった。
「情けを掛けてもらったのは、私の方だと思っていますけどね。私はあなたに出会えて僥倖です。あなたの…すべてが愛しいと思います。カルナ。私の愛しいひと。あなたに出会えたことが、私の今生で最大の幸福です。ありがとう、カルナ」
その、あまりにも熱烈に過ぎる台詞をアルジュナは真摯な表情で口にしたので、カルナは思わず頬を染めてうつむいた。
相変わらず、彼の言葉は正気とも思えなかった。だが、アルジュナの言葉をカルナは嬉しいと思った。彼が真剣に、真摯に心から思ったままを口に出していると判るからこそ尚更、心に染みるように彼のまごころが嬉しいのだった。
アルジュナがそっとテーブル越しにカルナのワイングラスを握り締めた指に触れ、カルナは動揺して少しワインをこぼした。アルジュナは困ったように苦笑してカルナを見詰め、カルナは思い切って顔をあげ、正面からアルジュナを見た。
夕陽の、オレンジ色の光が、金色に振り注いでアルジュナの美しい褐色の頬を照らしていた。彼はわずかに目を細め、愛しくてたまらぬというように、カルナをじっと見詰めていた。
こんなにも誰かに、一心に感情を注がれたことなどついぞなかった。アルジュナ。そう呼ぼうとしてカルナは、ふいに胸が詰まるように感じた。
アルジュナを、この男を愛している。何故だろう、遠い世界の住人だと、最初から諦めていた筈なのに、今夕陽の光を眩しげに浴びて目を細め、カルナに、他の誰でもないカルナに向かって微笑むアルジュナを見るうちに、そんな自戒はどこかへ消えて、カルナはただ彼にひたすらに惹かれている己を見いだした。
「……アルジュナ」
「はい。どうしましたか、カルナ?」
やわらかく首をかしげるアルジュナに、カルナはかろうじて首を振った。
「いや……なんでも、ない」
アルジュナは何か言いたげだったが、丁度そのときスープが運ばれて来て、彼は行儀良くカルナの手を離して座り直した。
その指先が離れていくのが惜しいとカルナは思い、そんなことを思う自分自身を、まるで己らしくないと、他人事のように思ったのだった。
その夜も、アルジュナは至極紳士的に振る舞って、最初の日に約束したとおり、カルナに指一本触れようとしなかった。
この日までにも、何度もカルナは、お前に世話になっているのに、何もしないでは気が済まないと頼み込んで、せめてと口や手で奉仕させてもらってはいたのだが、自分自身の欺瞞に気付いた今となってはただ苦痛だった。
アルジュナを、同じ枕で眠るこの男を、ただ愛しいと思っている。言い訳など見苦しい、ただ彼に抱かれたいのだ。たとえカルナ自身が快楽を感じることはなくとも、せめてアルジュナに己の身体で快楽を得て貰えるのなら、ひとときなりとも心が満ちるのではないかと思えた。
夜明け前に目を覚ますと、アルジュナは隣で眠っていた。吐息が髪をくすぐり、彼の腕がカルナの背に回されて、愛しげに抱き寄せられているのに心が痛む。
日本に居る間、共に過ごして欲しいとアルジュナは言った。彼の滞在予定が何日なのか、カルナは知らない。アルジュナに聞けば教えてくれるのだろうが、尋ねるのは気が進まなかった。
彼が去った後の生活を考えたくなかった。カルナらしくもない臆病さを、己で認めがたかった。それでも、自分が怖れていることから目を逸らす訳にはいかない。
アルジュナに、彼以外とはもう寝ないと約束した。それに、どのみち、いまカルナの背を抱いている彼の腕のあたたかさと、優しい愛撫を知ってしまった今となっては、もうこれまでのように求められるまま、誰彼に身体を開くことなどできそうもなかった。
――カルナの身体を抱く男達に、きっとアルジュナを思い出してしまうだろうから。それはきっと耐えられない。そう思った。
一度きりでも構わない。アルジュナに抱かれたい。彼が自分にいまこのひとときだけでも、向けてくれる熱を感じたかった。
衝動的にカルナは起き上がり、アルジュナの身体に馬乗りになった。彼が覚醒するよりも先に、下着を引っ張り下ろして性器を掴み出す。
眠っているからだろうが、幸いなことにそれは固く勃起していた。カルナの手管では到底勃たせられはしないだろうから、これ幸いとローションなど探す暇も惜しく、カルナは無理矢理それを、己の膣内に押し込んだ。
アルジュナが目を覚まして、止めなさいと強く引き留めたが、カルナは聞く気などなかった。……どうせ、この時間は長くは続かない。いつか破れる夢ならば、自らの手で破り捨てた方が、まだしも痛みに耐えられる。
アルジュナにただ、与えられてばかりいるのは苦痛だった。
何故かはわからない。だが、カルナはアルジュナと対等でいたかった。望むということの少ないカルナが、それだけは焼け付くように、心底から、ただひたすらにそう願った。
客とパフォーマーの関係なら、それは対等な関係だ。客はカルナにいくばくかの金と、気まぐれなプレゼントや食事を与え、カルナはパフォーマンスと時折はセックスでそれに返す。シンプルでかんたんな話だ。難しいことは何もない。
アルジュナはカルナを優しく抱きしめ、暖かなベッドに寝かせて、贅沢な食事を取らせ、山のような服を買い与えては、恋人のような所作で愛の言葉さえ囁いてくれる。そうしながらカルナからは何一つ受け取ろうとしない。カルナには、アルジュナに与えられるものが何一つない。何も返せないということがどれほど辛いか、カルナは初めて知った。
「もう、止めなさい……怪我をしますよ!」
「あ……だいじょ、ぶ、だ、すこし、くらいの、無理は」
たとえ壊れても構わない、二度と使うことなどないのだろうから。
アルジュナはひどく苦しそうな顔をして、それを見下ろして心は痛んだが、それでもカルナは満足だった。アルジュナがなんと言おうと、彼のペニスはカルナの中で熱く脈打ち、濡れてもいない女陰を貫かれる苦痛でさえ、そのアルジュナの熱さをより強く感じられると思えば嬉しくさえあった。
アルジュナは本気で腹を立てているようで、カルナの技術のなさを咎めた後は、彼を押し倒して自分で動きだし、カルナはややほっとして目を閉じた。アルジュナが突き放して去って行かなかったことも、萎えて投げ出す訳でもなかったことも、とかく僥倖と思えた。
「ああ……カルナ!」
「アルジュナ」
アルジュナがカルナの名を呼ぶ。その切羽詰まった声に、例えようもない愛しさを感じて、カルナもまた泣きたいほどに嬉しかった。
腰を引こうとしたアルジュナを、必死に引き留め、彼がカルナを抱きしめて、身体の中に熱い精液を注いでくれたのがどうしようもなく幸福と思えて、……その一瞬の多幸感は、アルジュナが絶望した表情を貼り付けているのに、潮のように引いていった。
……自分が、アルジュナの善意を踏みにじったのだと理解して、カルナは生まれて初めて泣きたいと思った。
小学校の時、クラスの男子たちに焼却炉に頭から放り込まれた時も、中学校の時、男女と囃し立てられて制服を鋏で切られた時も、初めて舞台に立って、打ち合わせでは一言も告げられていなかった性行為の実演を強要された時も、……一度たりとも、泣きたいなどと思ったことはなかったというのに。
「カルナ」
アルジュナは、カルナの身体を酷く丁寧にバスルームで洗ってくれた。終始大切なものを扱うようにカルナの身体を抱きしめ、上等のタオルで優しく水滴を拭って、額に、頬に、鼻先に、何度もキスを振らせてくれた。
「ねえ、カルナ。あなたは――戯れ言だと思っているのかもしれませんが、私は本気ですよ」
「? 何がだ?」
「あなたを、決して離さないと言ったことです」
アルジュナは溜息をついて、カルナの身体を抱き寄せた。
「カルナ、私は愚かで……あなたに、どうしたら伝えられるのかわかりません。でも、あなたを愛しているんです。あなたが私に、負い目を感じる必要なんてないんです。どうかお願いです。わたしと、ただ共にいることをあなたに受け入れて欲しい。あなたと共にいたい。私と一緒に生きて欲しい。
あなたに多くを望みすぎていることはわかってるんです。あなたがこれまで生きてきた人生そのものを、わたしは……でも、あなたをもう二度と、誰の目にもあんな形で触れさせたくない。誰にも、もう何があろうと、あなたの肌に触れさせたくなんかない、わたしは……」
絶句したアルジュナを、カルナはぼんやりと見た。
「……約束は、違えない。オレはもう二度と舞台には戻らない。オレのもとをお前が去ろうと、もう誰にも、この身体を見せることも触れさせることもしない。お前がそう望んだから、オレはただそうするまでだ」
アルジュナの頬にカルナは手で触れ、そっと首をかしげた。
「お前は、とても美しい。お前がオレを望んでくれた僥倖が今も信じがたい。だがオレはただ、お前が愛しい。だからお前の望むことであるのなら、どんなことであっても応えたいと思った。お前に、抱かれたいと思った。……そう言えば、よかったか」
アルジュナは目を見開いて、カルナの身体を抱きしめた。
「はい……はい、カルナ……ごめんなさい、私こそ、あなたを理解していなかった。あなたを愛しています。あなたが欲しい。カルナ、お前は……お前も私を求めてくれているなど、思っても……ああ、カルナ、愛しています。どうかわたしのものになって。今生限り共に居て下さい。来世でもまたきっと、お前の愛を得られるように努めます。私はいつだってお前を、カルナ……お前だけを唯一と定めているのですから」
アルジュナの言葉にカルナも頬を染め、彼の肩に顔を押しつけた。
「お……まえは、いつも、熱烈すぎる……オレはただ……だが、嬉しい」
カルナは顔を押しつけたまま、蚊の鳴くような声で、感謝する、と言った。
「好きだ、アルジュナ」
「カルナ、愛しています」
アルジュナの身体が温かく、泣きたいほどに愛しいと思いながら、いつの間にか二人とも、とろとろと眠りについているのだった。